代理人は来ています
戸叶壮一が調停室へ入ると、妻の美鶴は弁護士を連れていた。
美鶴は目を合わせず、用意した紙を読み上げた。
「夫は根拠のない疑いを繰り返し、婚姻関係を破綻させました。私は慰謝料を請求します」
隣の弁護士が、壮一側の空席を見た。
「戸叶さんは代理人なしですか。感情的な主張では手続きが長引きますよ」
壮一が時計を見ると、廊下から靴音が近づいた。
「遅くなりました」
入ってきたのは三田村絢子だった。黒い鞄を壮一の隣へ置き、弁護士記章を見せる。
美鶴の指が止まった。
「どうして、その人が」
絢子は名刺を調停委員へ差し出した。
「戸叶壮一さんの代理人です。同時に、榎戸浩規の妻でもあります」
美鶴の弁護士が書類から顔を上げ、依頼人へ小声で確認した。美鶴は答えず、水の入った紙コップを握りつぶしかけた。榎戸は美鶴が「ただの取引先」と説明していた男だった。
絢子は淡々と続けた。
「夫の会社カードから、同じホテルの二部屋が毎月決済されていました。一室は打ち合わせ用だと言っていましたが、利用者記録には榎戸と美鶴さんの身分証番号が残っています」
「勝手に個人情報を――」
「裁判所を通じて照会した資料です」
絢子が最初の束を置く。
「こちらは二人が壮一さんの出張日に合わせて予約した記録。こちらは、離婚後に壮一さん名義の住宅へ住む計画を相談したメッセージ。そしてこちらが、榎戸本人の陳述書です」
美鶴が初めて正面を向いた。
「浩規が、何を」
「あなたに責任を押しつければ、自分の家庭だけは守れると思ったようです」
絢子の声に怒りはなかった。だからこそ、美鶴の表情は崩れた。
壮一は一言も責めなかった。美鶴が用意した「疑い深い夫」という筋書きが、証拠の束の下で静かに潰れていくのを見ていた。
調停委員が陳述書の署名を確かめ、録音記録の提出方法を尋ねる。
絢子は鞄から封印済みの媒体を取り出した。
「原本はこちらです。証拠として提出します」
調停委員が受領欄へ印を押した。