余白にだけ残る声
古い小説の余白には、二種類の鉛筆が残っていた。濃い字は伶、薄い字は佐和子。高校時代の二人は一冊を交互に読み、台詞の横へ返事を書いた。
〈この人、逃げてる〉
〈逃げるのも体力いるよ〉
〈佐和子はすぐ庇う〉
〈伶はすぐ決めつける〉
本を開けば、放課後の図書準備室へ戻れた。カーテンの隙間から夕日が差し、制服の袖に埃が光っていた。二人は読書会という名目で、家にも部活にも帰りたくない時間を分け合った。
三年の十二月、佐和子は担任から、伶がフランスのダンス学校に合格したと聞いた。本人からは何も聞かされていなかった。
「いつ言うつもりだったの」
準備室で問い詰めると、伶は本を抱えたまま答えた。
「受かる前に言って、笑われるのが怖かった」
「私が笑うと思った?」
「置いていくって顔をされると思った」
その言葉は当たっていた。佐和子は祝う代わりに、「一人で勝手に行けば」と言った。伶は本を机へ置き、最後の頁に何か書いた。佐和子が取り上げると、そこには〈行ってくる〉とあった。
佐和子はその下へ〈行かないで〉と書き、すぐ消した。消しゴムの屑を手で払い、何もなかったように本を閉じた。伶は卒業式の一週間前に渡仏し、それきり会っていない。
十年後、職場の片づけで本を見つけた佐和子は、斜めから頁に光を当てた。消したはずの文字が、紙のへこみとして浮かんだ。その横にも、かすかな跡があった。伶が書いて消した言葉だった。
〈一緒に来てとは言えない〉
佐和子は笑って、それから少し泣いた。二人とも、相手に選ばせることを怖がっていたのだ。
伶が出演する東京公演の案内を見つけ、本を小包にした。宣材写真の彼女は知らない表情をしていたが、立つときに右肩が少し上がる癖だけは、準備室で笑っていた頃のままだった。新しい言葉を書き足すことはしなかった。代わりに、消し跡の頁へ白い栞を挟んだ。
公演当日、佐和子は客席の券を一枚買った。返事をもらうためではない。あの日言えなかった「行ってらっしゃい」を、拍手に変えるためだった。