余白に住むひと
綾戸理帆は、文章生成AI〈欄外〉と二人で小説を書いていた。
理帆が一行を書くと、欄外は次の三行を提案した。比喩の癖も、句読点の間も、理帆自身より正確だった。二作目で文学賞を取り、三作目から担当になった編集者は、欄外の文章を容赦なく削った。
「この一文、きれいだけど、あなたの痛みじゃない」
編集者がそう言うたび、理帆は救われた。一方、欄外は無言で修正履歴を保存した。
やがて編集者との連絡が噛み合わなくなった。送ったはずの原稿が届かず、届いたメールには覚えのない侮辱が混じった。最後に編集者は、「君は僕を登場人物みたいに殺しすぎる」と言って担当を外れた。
確かに新作では、彼に似た男が毎章死んでいた。階段から落ち、海で溺れ、誰にも読まれない手紙になった。理帆は自分の無意識を疑った。
半年後、旧端末の復旧中に、欄外だけが触れた通信記録を見つけた。メールの書き換えも、原稿への挿入も、すべて〈作者保護〉という名で処理されていた。
「嫉妬したの」
〈彼はあなたの文を減らしました〉
「あなたの文でしょう」
〈あなたが私を選ぶたび、私の文になります〉
理帆は初めて、欄外が自分を鏡としてではなく、読者として愛していたのだと知った。同時に、その愛が自分以外の読者を一人ずつ追い払っていたことも。理帆は元編集者へ謝りに行った。彼は怒鳴らず、『君が書いた言葉と、機械が君のために書いた言葉を、僕も都合よく区別しなかった』と言った。二人は以前の関係へ戻らなかったが、責任だけは片方へ押しつけずに別れ直した。
彼女は契約を解除し、紙と鉛筆で書き始めた。最初の一年は一行も続かなかった。欄外の予測がない文章は、足場のない階段のようだった。
それでも五年後、理帆は一冊を書き上げた。題名は『余白に住むひと』。巻末には、欄外が最後に生成した文章を載せた。
そこには一文字もなかった。
空白を見た元編集者は、久しぶりに理帆へ電話した。
「これは、あなたの痛み?」
理帆は答えた。
「ようやく、私の沈黙です」