作者名のない帯

帆足谷美玲緒は、書店のカフェで婚約を破棄した。

「校正の仕事じゃ、いつまでたっても生活が安定しないでしょう。貴澄さんは大手出版社の編集者で、人気作家を何人も育てているの」

神楽岡貴澄は新刊の帯を指で叩いた。

「文章を直すだけの人と、本を世に出す人では格が違う。朔弦君も現実を見たほうがいい」

月見里川朔弦は、指輪を受け取って鞄へ入れた。美玲緒は彼が夜ごと何を書いているか尋ねたことがない。仕事の愚痴だと思い、原稿用紙を古紙の日に出そうとしたことさえあった。

その夜、同じ書店で文学賞の発表会があった。貴澄は、自分が担当する覆面作家の受賞を見届けるため、美玲緒を連れて最前列へ座った。

司会者が受賞作を読み上げる。

十二言語で累計一千五百万部、映像化権は世界六社が争い、推定印税は十数億円。作者は一度も顔を公表していなかった。

「著者、月見里川朔弦先生です」

壇上へ上がった朔弦を見て、美玲緒の手から祝杯が落ちた。

貴澄は慌てて立つ。

「僕が先生を発掘しました。次回作も私の編集で――」

出版社の編集長が遮った。

「あなたは担当ではありません。共有サーバーで原稿を読み、知人へ作者情報を漏らしたため、今朝プロジェクトから外しました」

貴澄が美玲緒へ語った“次回作の内容”は、機密違反の証拠になっていた。作者との面会実績も一度もない。名刺に印刷された役職は本物でも、彼が誇った功績はすべて他人のものだった。

編集長は朔弦へ、海外出版社との契約書を差し出した。前払金だけで、美玲緒が想像した安定した人生を何十回も買える額だった。

美玲緒は壇上の下から呼びかける。

「私、貧しい生活が嫌だっただけ。あなたの才能を否定したわけじゃない」

朔弦は受賞作を開いた。

「僕の原稿を読まなかった人が、才能だけを好きになるのは難しいと思う」

書店員が新しい帯を本へ巻く。そこには初めて、作者の顔と本名が印刷されていた。

作者名のない帯が外され、貴澄の担当者名も契約書から消えた瞬間、美玲緒は条件の良い編集者へ乗り換えたつもりで、世界が欲しがる作家を自分から手放した。