傷は握手より七時間古い

聖別舞踏会の中央で、聖女マリエラが右手の手袋を外した。

 掌には紫色の火傷が広がっていた。

「先ほどキアラ様と握手した瞬間、呪いが流れ込みました」

 婚約者アルノーはキアラを振り返り、剣の柄へ手を置く。

「聖女を害する女を妻にはできない。デュモン侯爵令嬢との婚約を破棄し、ただちに拘束する」

 キアラの胸が冷えた。十年の約束が、診察もされず一言で罪状に変わったからだ。それでも泣くより先に、彼女は宮廷医師を見た。

「イスカリオ先生。診療鏡を」

「自分に都合のよい医師を呼ぶのか」とアルノーが吐き捨てる。

 白髪のイスカリオは返事をせず、銀縁の小さな鏡をマリエラの掌へ向けた。診療鏡は傷が生まれた時刻を、皮膚の再生速度から一度だけ映す医療器具だ。

 鏡面に数字が浮かぶ。

 七時間十二分前。

 キアラとマリエラが握手したのは、ほんの五分前だった。

「呪いには遅れて現れるものもある!」

「これは現れた時刻ではありません。組織が損傷した時刻です」

 イスカリオは鏡を伏せた。味方として語ったのは、それだけだった。

 マリエラが傷のある手を背中へ隠す。アルノーは周囲の視線に気づき、急に声を和らげた。

「誤解だったようだ。キアラ、拘束命令は取り消す。婚約も継続しよう。君も聖女を責めず、穏便に――」

「先生は、私が八歳のときにも同じ鏡を使いましたね」

 キアラはアルノーを見ず、イスカリオに言った。

「落馬の傷を、泣き止むまで待たずに治してくださった」

「患者の涙は診断材料にならんからな」

 その無愛想な返事に、キアラは初めて少し笑った。

 アルノーが彼女の腕を掴もうとする。

「待て。王子妃の地位を捨てる気か」

「地位ではなく、私を診もせず有罪にした方を捨てるのです」

 イスカリオは王立医学院の鍵を掌に載せ、その手を差し出した。

「研究助手が足りん。傷の時刻を読むより、人の顔色を読むほうが得意なら来い」

 キアラは元婚約者に背を向け、迷いなくその手を取った。