冷蔵庫の中の企画書
食品メーカーの商品開発室で、榛名環は企画書を冷蔵庫へ入れる。
紺のスーツの上に苺柄のエプロンを着け、試作品の隣へ会議資料を立てる。理由を聞いても、返事はいつも同じだ。
「腐るものから決める」
久慈野紬の企画書も、提出した日にチルド室へ入れられた。祖母が作っていた塩レモンを、一人暮らし向けの小瓶にする案だ。だが試食会では「酸味が尖る」「懐かしさ頼み」と酷評された。
部長会議は翌朝。紬は環の机に、数字を書き換えた調査表を置いた。好意的回答を五十二パーセントから六十にすれば、審査基準を越える。
「判子をください。量産後に味を調整します」
「数字は調味料じゃない」
「このままでは終わります」
「終わる企画と、腐らせた企画は別物だ」
環は企画書を冷蔵庫から出し、代わりに試作品をすべて並べた。蓋を開け、匂いを嗅ぎ、突然給湯室へ向かう。戻ってきた時、手には炊きたての白米と、コンビニのお粥があった。
試食会ではソース単体を冷たいスプーンで舐めていた。けれど塩レモンは熱に触れると角がほどけ、湯気の中に甘い香りが立った。
「君のお祖母さんは、これだけで食べたのか」
「いいえ。遅く帰った日に、お茶漬けや焼いた鶏へ」
「なら、売るのは思い出じゃない。帰宅後五分だ」
環は調査表の改ざん箇所を黒く塗りつぶし、試食条件の誤りを書き足した。会議では失敗を隠さず、用途を限定した再試験を提案するという。
紬は怖くなった。
「私の名前は外してください」
「なぜ」
「失敗した人として残ります」
「失敗を見つけた人として残す。そこを間違える会社なら、私も辞める」
環は苺柄のポケットから、冷えた企画書を取り出した。端には水滴がついている。けれど「保留」のスタンプはなかった。
彼女は紙を炊飯器の湯気へかざし、しわを丁寧に伸ばした。
「企画書を冷やすのは、捨てるためだと思っていました」
「熱くなった人間が、嘘を足さないためだ」
そして環は、空いたチルド室に改ざん前の調査表を入れた。
「これは腐らせない。次に迷った時、二人で見返す」