初恋を運ぶ蛾

 死者へ言葉を届ける白い蛾は、月のない夜にしか羽化しない。

 代金は金でも血でもない。

「一文につき、その人への愛を全部」

 墓守の老婆は繭をセフィネの掌に置いた。

「蛾が愛を食べて飛ぶ。届いたあとは、名前も顔も覚えているけれど、もう恋しくはならない」

 セフィネは七年間、ラウルの墓へ通った。

 二人は結婚の約束をしていたわけではない。ただ、仕立て屋の閉店後に川沿いを歩き、硬いパンを半分に割り、いつか海を見ようと話した。恋人と呼ぶには短く、忘れるには長い季節だった。

 彼が急な熱で死んだ日、セフィネは隣町で仕事をしていた。

 最後の言葉は、喧嘩のあとに送った「もう来ないで」だった。

 白い繭が鼓動する。

「謝りたい?」

 老婆に問われ、セフィネは首を振った。

 謝罪なら、生きている自分のためだ。

 死者のところへ持っていくべきなのは、もっと軽い言葉だと思った。

 彼が好きだった蜂蜜酒を墓石に注ぐ。甘い匂いに誘われて、繭が割れた。現れた蛾の翅には、二人で見られなかった海の色が滲んでいる。

 セフィネは杯を二つ持ってきていた。片方を満たす癖だけが、七年経っても抜けなかった。

「一文だけだよ」

 老婆が念を押す。

 セフィネは何度も用意した言葉を捨てた。

 愛していた。ごめんなさい。待っていて。忘れない。

 どれも彼を死者の側へ縛る気がした。

 蛾が胸元に止まる。細い口吻が、心臓のすぐ上に触れた。

 川辺の笑い声が一つ吸われる。肩を寄せた冬の寒さが吸われる。彼の指が髪に触れたときのくすぐったさまで、銀の粉になって翅へ移った。

 まだ言葉を変えることはできる。

 蛾が飛べば、二度と彼を愛せない。

 セフィネは墓石を撫でた。

「ラウル、海はきれいだったよ」

 嘘だった。彼が死んでから、まだ一度も行けていない。

 けれど明日の朝、旅支度をするつもりだった。

 蛾が夜空へ舞い上がる。

 胸から最後の熱が抜ける直前、セフィネは笑った。

「だから、もう心配しないで」

 白い翅が墓地を越えた。

 残された彼女には、海へ行く約束だけが、恋ではない形で残った。