十秒ぶんの海

玻奈が働く海辺の小さな駅には、夏が終わると一日に数人しか降りなかった。彼女は観光案内所の窓口で、パンフレットを同じ幅にそろえながら、東京にいる妹からの未読メッセージを三週間放置していた。

喧嘩の原因は忘れかけている。ただ、先に返事をしたほうが負けるような気が残っていた。母からは「二人で話して」と言われたが、それさえ仲裁されたようで腹が立ち、玻奈は海の写真ばかり投稿していた。妹がその写真を見ている印だけはつく。それを会話の代わりにして、玻奈もまた妹の投稿へ印だけを残した。

午後、首から空き瓶を七本ぶら下げた旅人が切符を買いに来た。瓶には「朝市の包丁」「雪の下の水」「知らない町の拍手」と札がついている。

「音を集めているんですか」

「音が消えたあとの形を集めています」

旅人はそう言って、ホームの端で瓶の蓋を開けた。海鳴りと、旗を打つ風と、遠くの踏切が瓶の口へ吸い込まれていくように見えた。

列車まで十分。旅人は玻奈にスマートフォンを差し出した。

「誰かに十秒だけ、話さない音を送ってください」

「無言電話ですか」

「声にできないなら、声以外で」

玻奈が断ろうとすると、旅人はもう海へ背を向けていた。瓶の一つを耳に当て、「今日は余白が大きい」と満足そうにうなずいている。

やがて列車が来た。旅人は乗り込み、窓越しに指を十本立てた。何の助言もない。妹と仲直りしろとも、家族は大切だとも言わない。

列車が去ると、駅はまた風だけになった。さっきまで瓶の口に集まっていた音が、今度はホーム全体へほどけていく。

玻奈は未読の画面を開いた。妹の最後の文章は「もういい」で止まっている。その前には、玻奈が送った冷たい一文が残っていた。「好きにすれば」。読み返すと、駅の空気より指先が冷えた。返信欄に文字を打っては消した。ごめん。元気。そっちは。どれも遅すぎる気がした。

ホームの黄色い線の内側に立ち、録音ボタンを押す。十秒間、玻奈は黙った。風がマイクを叩き、波が砕け、最後の一秒に発車ベルの余韻が混じった。

送信先に妹の名前を選ぶ。指はまだためらっていたが、玻奈は説明を一文字も添えず、十秒ぶんの海を送った。