十秒後の台所
茉莉は、誕生日の写真を一枚だけ撮ることにした。
退院許可は午後四時まで。母の敬子は朝から煮物を作り、茉莉が食べられる量よりずっと多く皿に盛った。卓上には二十八本の蝋燭を立てるには小さすぎるケーキがあり、箱のまま置かれている。
病院では、顔色の記録みたいな写真ばかり増えた。点滴台の横、病室の窓、見舞いの人が持ってきた花。茉莉はどれも削除しなかったが、今日の一枚には白い壁も管も入れたくなかった。
「髪、梳かす?」
敬子が櫛を持ってくる。
「そのままでいい」
「口紅だけでも」
「お母さんが塗れば」
敬子は困った顔で笑い、口紅を引き出しに戻した。
茉莉はスマートフォンを小麦粉の缶に立てかけた。画面に映る台所は狭い。冷蔵庫には磁石で留めたスーパーのチラシ、流しには洗ったざる、換気扇の下には焦げ跡のある鍋。映えないものばかりだったが、ここでいいと思った。敬子が毎朝めくる卓上カレンダーも、茉莉の好きな麦茶のポットも、写真の端に入る。どちらも今日のために用意されたものではない。そのことが、いちばんよかった。
画面を横向きにし、二人の全身ではなく腰から上が入る角度へ直す。茉莉は一度試し撮りをしたが、誰も写っていない台所を確認しただけで消した。
セルフタイマーを十秒にする。敬子は煮物の皿を中央へ動かし、茉莉は元に戻した。
「誕生日なんだから、ケーキ開けよう」
「あとで」
「写真なのに?」
「普通のところがいい」
普通、という言葉に敬子の手が止まった。医師から説明を受けて以来、二人はその言葉を避けていた。来月も普通に、退院したら普通に、という約束に聞こえるからだ。
茉莉は撮影ボタンを押した。
十。
敬子が慌ててエプロンのしわを伸ばす。
九。
茉莉は椅子から立ち、ふらついて冷蔵庫に手をつく。
八、七。
「座ってればいいのに」
「写らない」
六。
敬子が肩を貸そうとする。茉莉はその腕を取ったまま、流しの前に並んだ。
五、四。
二人とも画面を見ていない。敬子は濡れたざるを布巾で拭き、茉莉はその横で小皿を棚へ戻す。
三。
「笑う?」
「間に合わないよ」
二、一。
小皿が棚に収まった瞬間、シャッターが鳴った。