午前十時の最後列
鳥羽井萌黄は、一人で映画館へ行くとき、必ず午前最初の回を選ぶ。
館内がまだ眠そうで、売店のポップコーンも作りたてだからだ。何より、隣の人が笑うか泣くかを気にしなくていい。
その日観るのは、古い家族映画の再上映だった。
平日の朝ではないのに客は少なく、萌黄は最後列の中央を取った。飲み物は熱い紅茶、ポップコーンは塩とキャラメルの半分ずつ。誰かと来れば分け方を相談するところだが、一人なら両方選べる。
照明が落ちる。
映画は、海辺の町でパン屋を営む老夫婦の話だった。大きな事件は起こらない。朝に生地をこね、昼に客が来て、夕方に店を閉める。夫婦は時々言い争い、翌朝には同じ台所へ立つ。
萌黄は途中で、自分が泣いていることに気づいた。
悲しい場面ではない。老夫婦が焼き上がったパンを半分に割り、湯気を確かめるだけの場面だった。
隣を見ても誰もいない。袖で目元を拭き、もう一粒ポップコーンを口へ入れた。塩気のあとにキャラメルの甘さが来た。
会社では、映画の感想を訊かれると困る。
「泣けた」「笑えた」「展開がよかった」。短く説明できる言葉を探すうち、本当に感じたものが薄くなる。
今日は誰にも話さなくていい。パンの湯気で泣いた理由も、分からないまま持ち帰れる。
上映が終わり、明るくなった館内で、萌黄はすぐ立たなかった。
清掃の人が前方から席を確認している。邪魔にならないうちに出ようと思いながら、最後の音楽が消えるまで座っていた。
ロビーへ出ると、次の回を待つ人で少し賑わっていた。
萌黄は売店で、余った紅茶を紙カップのまま持ち帰る。自動扉が開くと、冬の日差しが眩しかった。
街は映画の続きのようには見えない。配達の自転車が走り、信号待ちの人が携帯を見ている。それでもパン屋の前を通ると、焼けた小麦の匂いがした。
萌黄は一つだけ丸パンを買い、公園のベンチで割った。
中から白い湯気が出た瞬間、また少しだけ目が熱くなった。
今度も理由を言葉にせず、温かな半分を両手で包んだ。休日の映画は終わったのではなく、パンの香りの中で静かに続いていた。