午後十一時の風呂
都々が夜勤の日、紬生は風呂の湯を十一時に足す。母は帰るとまず洗面所へ行き、髪を結んでいたゴムを外し、それから浴室の戸を二センチだけ開ける。湯気を逃がすためだと言うが、紬生には家へ戻った印のように思えた。
中学二年になってから、待っているとは言わない。宿題が残っていた、喉が渇いた、動画を見ていた。理由はいくらでも用意できる。今夜も数学の問題集を開き、同じ式を三度書いた。
十一時十分、追い焚きのランプが消えた。洗面器の裏から石鹸の匂いが上がる。紬生は風呂の蓋を半分閉め、脱衣籠に乾いたタオルを一枚足した。冷蔵庫には、朝の都々が作った杏仁豆腐が二つ並んでいる。
十一時四十二分、玄関の外で靴底が止まった。鍵を探す小さな金属音。紬生は問題集へ顔を近づけた。
「ただいま。まだ起きてるの」
「この問題、変」
都々は制服の上着を脱ぎながら式を見て、「変なのは問題じゃなくて、ここ」と符号を指した。指先は外気で冷えていたが、消毒液の匂いがした。
風呂へ入った母が、戸を二センチ開ける。そこから湯気と、深く息を吐く音が流れてきた。紬生は杏仁豆腐を二つ出し、匙を添える。浴室から「生き返る」という声がして、家の空気が少し緩んだ。
問題の答えはもう出ていた。それでも紬生は問題集を閉じず、母の濡れた髪から石鹸の香りがするまで、次の頁をゆっくりめくっていた。
都々は風呂上がりに杏仁豆腐を食べ、「病院のより固い」と言った。褒めているのか尋ねると、「家の固さ」と答える。紬生には意味が分からなかったが、悪い意味ではなさそうだった。二人の匙が器へ触れる音は、夜中なのでいつもより澄んで聞こえた。母が寝室へ入ったあと、紬生は浴室の戸を閉めに行く。残った湯気が頬へ触れ、鏡には二センチの隙間から逃げ損ねた曇りがあった。指で小さく丸を描いてから、灯を消した。
布団へ入ると、廊下の向こうで母の欠伸がした。聞こえないふりをして目を閉じる。家全体が風呂上がりのように温んでいた。