句点のある見積書
浅羽雪乃は、追加料金を伝える文章から句点を抜いてしまう。
フリーランスでウェブ制作を始めて二年。依頼主から「ついでに」と言われるたび、笑顔の記号を添えて引き受けた。断れば感じが悪い。見積もりを出せば、細かい人だと思われる。そうして一ページの修正は三ページになり、納品日は何度も後ろへずれた。
その案件では、すでに四回、色と写真を差し替えていた。金曜の夜、先方から五回目のメールが届く。
《せっかくなので、別の雰囲気も一案見てみたいです。すぐで大丈夫なので》
すぐ、が何時間なのか雪乃には分かっていた。素材を探し、配置を変え、スマートフォン表示を確認すれば半日はかかる。
《承知しました!》と打ったところで、机の端に置いた見積書が目に入った。最初に合意した修正回数は二回。そこへ自分で赤い線を引き、何度も見ないふりをしていた。
雪乃は返信を作り直した。
《新規案の作成は追加作業となります。ご希望の場合は、別途一万二千円でお見積もりします。》
金額のあとに置いた句点が、扉の錠のように見えた。冷たすぎる気がして《恐れ入りますが》を加え、また消す。既存案が悪かったのでは、と先回りして値引く文章も消した。
送信後、返事は一時間来なかった。
その間、雪乃は新規案用の白いキャンバスを無意識に作っていた。断ったのに、断らなかった場合の準備をしていたのだ。ファイル名を付ける前に閉じ、作業時間を記録するアプリも停止した。雪乃は受注が切れる未来を何度も想像した。請求書の金額を下げれば、今からでも関係を戻せる。
やがて《今回は現在の案で進めます》と届いた。
喜ぶほどのことではなかった。追加の売上も、褒め言葉もない。ただ、今夜の作業が一つ増えなかった。
雪乃は開いていたデザインソフトを閉じ、見積書の赤い線を消さずに保存した。冷めた麦茶を飲むと、少し渋かった。
句点の先には何も始まらなかった。その何もない時間を、雪乃は請求せず、自分のものにした。