右手はいらない
音楽賞の授賞式で、匿名作曲家〈L〉が初めて姿を現すことになった。
舞台へ上がったのは笹森征志だった。彼は深く頭を下げ、事故で表舞台を去った妹・依都の名を一度も口にせず、「五年間、正体を隠して作ってきました」と語った。
客席の端で、依都は動かない右腕を膝に置いていた。
事故前、二人は同じ部屋で曲を作った。依都が旋律を組み、征志が投稿を担当する。右手を失ってからも、彼女は左手だけでピアノロールへ音を置いた。匿名なら同情されずに聴いてもらえる。その約束だった。
苦しい夜、依都は自分へ言った。
「右手はいらない」
イントロが始まる。受賞曲『LEFT』は、左側のスピーカーからしか鳴らない。征志は中央の鍵盤へ両手を置いた。だが一音目が出ない。
司会が慌てる。征志は笑ってやり直す。やはり無音だ。
大型画面に〈認証してください〉と表示された。
征志の顔が歪む。楽曲データは彼が管理していた。依都の端末から奪い、契約書には自分の名を書いた。生演奏用のファイルも確認したはずだった。
客席の依都へ、スポットライトが落ちる。
イヤホンから、昔の征志の声が流れた。
「右手はいらない。おまえはもう、人前に出ないんだから」
事故の夜、彼がハンドルを切った理由を、依都は思い出していた。人気が出れば匿名を解くと言い出した妹を黙らせるためだった。録音は車内通話の自動保存に残っていた。
依都は舞台へ上がり、左手の親指を鍵盤脇のセンサーへ置く。
認証音。
イントロが今度こそ走り出した。片側だけだった音が中央へ集まり、サビで左右いっぱいに裂ける。合成声が高く歌い、征志の用意した受賞コメントを飲み込んだ。
最後の小節、画面に二つの手形が現れた。右は灰色のまま。左だけが青く点灯する。
「右手はいらない」
それは欠損を慰める言葉でも、兄が妹を捨てる言葉でもなかった。
この曲を開くために、征志の右手は最初から必要とされていなかったのだ。
最後の一音と同時に、作曲者欄の〈L〉が反転する。
〈笹森依都〉。
征志の手の中で、受賞トロフィーだけが場違いに光っていた。