合鍵は追跡番号で
奏乃が仕事から戻ると、冷蔵庫に見覚えのない鍋が入っていた。ふたには付箋が貼られている。
《野菜不足だろ。温めて食べろ 父》
玄関の鍵は壊れていない。父が持つ合鍵で入ったのだと分かった。
スマートフォンを開くと、昼のチャットに〈近くまで来た〉と一行だけ残っていた。返事をしなかった自分への言い訳のように、その下へ〈鍋、冷蔵庫〉が追加されている。
奏乃は鍋を出さず、引き出しから小さな封筒を取った。予備の鍵を入れ、厚紙で挟む。宛名を書いている間にも通知が鳴った。
〈食ったか〉
〈まだ〉と打ちかけて消した。
〈今日、部屋に入ったよね〉
父はすぐに〈合鍵あるからな〉と返した。続けて、笑っている犬のスタンプ。
奏乃は封筒の写真を送った。
〈明日、この鍵を返す〉
既読がつくまで一分かかった。
〈家族なのに水くさい〉
その言葉は、鍵より薄いのに、いつも扉を開けてきた。奏乃は封筒の口をのりで閉じる。
〈家族だから、勝手に入らないでほしい〉
〈来る前に聞いて。返事がない日は来ないで〉
〈心配してるだけだ〉
〈心配と入室は別だよ〉
送ってから、奏乃は郵便局のアプリで集荷を申し込んだ。追跡番号が発行される。父とのチャットへ、その番号だけを貼りつけた。
長い沈黙のあと、父から〈分かった〉と来た。続けて〈鍋は捨てるな〉。
奏乃はようやく冷蔵庫を開けた。鍋の中身は、父がよく作る薄味のけんちん汁だった。食べるかどうかは、自分で決めればいい。
流しには洗った覚えのない湯のみが伏せてあり、窓は少し開いていた。父が部屋を整えたつもりなのだろう。以前も、留守中に洗濯物を取り込み、〈助かっただろ〉と送ってきた。奏乃が困ったと言うと、父は親切を拒まれた顔をした。だから今日は、気持ちの是非ではなく、鍵という物だけを返すことにした。
封筒は明日の午後、父の家へ届く。届いたかどうかは番号で分かる。部屋の中を確かめてもらう必要は、もうない。
鍵の発送通知を確認し、奏乃は玄関のチェーンをかけた。閉め出したのではない。次に開けるとき、内側から自分で決められるようにしたのだ。