名前のないコーラス
御厨青磁が担当する合成歌手には、正式な名前がなかった。
白い髪、黒いワンピース、胸元に数字だけを付けた少女。新曲のMV公開後に投票で名前を決める予定だった。青磁は制作会社から、視聴者が親しみやすい表情へ口元を調整するよう命じられていた。
イントロで少女は水槽の中に立ち、泡を吐く。歌声は澄んでいるのに、唇が歌詞より多く動いていた。
「名前を呼んで」
青磁は演出だと思った。まだ名のないキャラクターが、視聴者へ選名を求めている。Aメロで少女の背後に三十一の影が浮かび、それぞれ違う呼吸で肩を上下させた。合成音声なのに、息の位置が一定しない。
青磁には一つだけ聞き覚えがあった。語尾で空気を飲み込む癖。生前、仮歌の仕事をしていた母の癖だった。母は契約上の理由で名を出せず、何百曲も「素材」として残した。亡くなった後、ハードディスクは制作会社へ買い取られた。葬儀で流す声さえ残っていなかったのに、広告のジングルでは母らしい息が何度も使われていた。青磁は偶然だと言い聞かせてきた。
サビに入ると、少女の口から声ではなく人名の母音がこぼれた。画面下の歌詞欄には表示されない。青磁が顔の動きを解析すると、三十一人分の発音データが別々の色で分かれた。
「名前を呼んで」
彼は公開管理画面へ入り、非表示の学習素材一覧を開いた。そこには「女声A」「息成分12」「泣き声03」としかない。だが元ファイルのメタデータには、録音者が自分で打った本名が残っていた。母の名も、その中にあった。
最後のサビで少女は水面へ上がる。三十一の影が一人ずつ彼女の身体から離れ、画面の左右へ並んだ。青磁は投票フォームを閉じ、代わりに素材提供者の本名をクレジットへ流した。
最後の一音。少女は自分の胸の数字を外し、影たちへ向かって口を動かす。
「名前を呼んで」
名もないキャラクターへ新しい名を与えてほしいのではなかった。彼女を作るために声を切り取られた人々を、番号ではなく名で呼び直してほしかったのだ。
公開画面から投票欄が消え、三十一の名前だけが歌より長く残った。