向かいの棟の子

 私の家は、二棟並んだタワーマンションの三十一階にある。

 夜になると、向かいの棟の同じ高さに男の子が現れた。

 私より少し年下で、痩せていて、いつも灰色の服を着ている。部屋の明かりを消すと見えなくなるので、寝る前だけカーテンを開けて話をした。

 声は届かない。

 男の子は画用紙へ文字を書き、窓へ押しつけた。

 文字は全部、左右が逆だった。

 私はスマートフォンで撮影し、画像を反転させて読んだ。

〈たすけて〉

〈こえをだせない〉

〈おとうさんにはいわないで〉

 父はマンションの設備管理の仕事をしている。

 男の子のことを話すと、父は向かいの棟を一度見ただけで言った。

「あの階は機械室だ。人は住めない」

 双眼鏡も取り上げられた。

 それでも男の子は毎晩現れた。

 最後の紙には、

〈ものおきのうしろ〉

 と書かれていた。

 私は母にだけ写真を見せた。

 母はしばらく拡大し、私の部屋を見回した。

「向かいの棟なら、間取りは左右逆に見えるはずよ」

 写真の男の子の後ろには、星形の傷がついた壁と、白い収納扉が写っていた。

 どちらも私の部屋にあるものと同じ位置だった。

 母は照明を消した。

 向かいの窓に見えていた部屋ごと、男の子は消えた。

 暗い窓には、夜景しか残らない。

 あれは向かいの棟ではなかった。

 ガラスに映った、私の部屋だった。

 つまり男の子は、毎晩、私の背後に立っていた。

 母は物置の鍵を探した。

 父の机から、見たことのない細い鍵が出てきた。

 棚を動かすと、壁に点検用の扉があった。

 鍵を回すと、湿った空気が流れ出した。中には子ども用の布団、水のペットボトル、鎖、そして半年前から行方不明になっている男の子の名前が書かれた通学帽があった。

 奥で、小さく息をする音がした。

 母が警察へ電話をかけようとしたとき、玄関の鍵が開いた。

「ただいま」

 父の声だった。

 私は黒い窓を見た。

 反射の中で、父は母の背後に立っている。手には大きな工具を持っていた。

 そのさらに後ろで、男の子が最後の紙を掲げた。

 今度は反転させなくても読めた。

〈うしろをみないで〉