命令できない護衛
香辛料商サナは、借金の担保として一枚の護衛契約を受け取った。
羊皮紙の中央には、人造槍兵イビスの掌紋。下には百を超える命令条項が並び、最後に《所有者への敵意を抱くことを禁ず》とあった。
紙を渡した伯爵は鼻で笑う。
「荷馬車三台分の代わりだ。高くついたが、そいつは寝ずに戦う」
イビスは伯爵の背後に立ち、槍先をサナへ向けていた。命令が移るまでは、現所有者を守るしかない。
「新しい所有者名をここへ」
書記が羽根ペンを差し出す。
サナは受け取り、契約の端から中央まで一本の線を引いた。
伯爵が笑いを止めた。
「何の真似だ」
「相殺線よ。商人の常識でしょう。担保価値を消滅させ、債務も同額だけ消す」
「人造兵を無価値にする気か!」
「人の価値と、所有権の値段を一緒にしないで」
伯爵がイビスへ怒鳴った。
「その女を殺せ!」
槍が閃く。
だが穂先はサナの喉の寸前で止まった。相殺線が所有者欄を断ち、命令の伝達を遮っている。契約はなおイビスの心炉を締め上げていた。
サナは羊皮紙を卓上灯へかざした。
「待て! 燃やせばそいつも止まる!」
「契約書には『原本焼失時、所有権は消滅する』としか書いてない。停止するとは一字もないわ」
炎が掌紋を食べる。
イビスの手首から黒い鎖模様が剥がれ、灰になった。槍が床へ落ちる。
「伯爵を討ちますか」
「それは私の命令になる。あなたが決めて」
イビスは伯爵を見たが、拾った槍を鞘へ収めた。そして屋敷の門から外へ出た。
翌朝、サナの隊商は護衛なしで出発した。峠には盗賊が出る。それでも彼女は契約の代わりを探さなかった。
城門を抜け、隊商の鈴が朝風に鳴ったところで、道標にもたれていたイビスが歩み寄る。彼は伯爵家の紋章を槍布からすでに切り取っていた。
「雇用条件を確認したい」
「給金、休日、契約解除の自由。命令はなし。相談は多め」
「最後の項目を希望します」
彼は槍を柄からサナへ差し出した。
「これは服従ではありません。背中を預ける相手に、先に預けておくものだと聞きました」
サナが受け取ると、イビスは初めて命令の届かない側――彼女の隣へ並んだ。