善人の空白

墨谷義臣が刑務所を出た日、門前に葛西直秀が立っていた。

義臣は十二年前、雨の夜に車で直秀の妹をはね、逃げた。刑期を終えたあと、「社会復帰支援」として事故と裁判の記憶を削除された。本人が望み、遺族が拒んでも実施される制度だった。

「あなたは、誰ですか」

義臣は穏やかに尋ねた。直秀は殴るつもりで来たのに、その顔には怯えも開き直りもなかった。罪だけを抜かれた人間は、まるで謝る相手のいない善人だった。

義臣は小さな運送会社に就職した。酒を飲まず、制限速度を守り、横断歩道では遠くに人影があるだけで停まった。評判はすぐによくなった。直秀は腹が立ち、何度も後をつけた。

ある晩、激しい雨が降った。義臣のトラックが路肩で急停車した。彼は外へ飛び出し、誰もいない道路の中央へ駆け寄った。濡れたアスファルトに膝をつき、両手を差し伸べる。

「どうした」

直秀が駆け寄ると、義臣は青ざめていた。

「女の子がいた気がしたんです。黄色い靴の」

妹が事故の日に履いていた靴の色を、義臣は知らないはずだった。

医師は、情景の記憶は消えても、恐怖で作られた身体反応が残ることがあると説明した。義臣はそれを聞き、自分の過去の記録を開示してほしいと願い出た。しかし法律は、削除後の再告知を禁じていた。再び罪悪感を植えつけるのは治療への侵害だという。

直秀だけが、真実を語れる立場にいた。

二人は雨の止んだ駐車場で向かい合った。義臣は何度も頭を下げた。

「僕が何をしたのか、教えてください。知らないまま善人でいるのが怖い」

直秀は十二年間、加害者が苦しむ姿を想像して生きてきた。目の前にいる男は苦しんでいない。だからこそ、妹の死をこの男へ返したくなった。

けれど口を開く寸前、義臣の手が小刻みに震えているのを見た。

直秀は事故のことを語らなかった。ただ、妹の名前と、好きだった花と、笑うと左の頬にえくぼができたことを話した。

翌年、義臣は会社を辞め、通学路の見守り員になった。なぜその仕事を選んだのか、本人には説明できない。雨の日だけ、黄色い長靴の子を見送ったあと、道路へ深く頭を下げた。

直秀は遠くからそれを見ていた。赦したわけではない。忘れさせてもいない。

ただ、罪の記憶が消えた場所に、一人の人間の記憶を置いたのだった。