嘘しか話せない令嬢の真声糖
「婚約を喜んでおります」
そう言いながら、令嬢エステルは泣いていた。
薬屋《青い天秤》の店主ヴェルノは、泣き顔よりも言葉の歪みを見た。喉元に黒い輪が浮かび、発した本心だけが反対の意味へ変わっている。
「呪われましたね」
「いいえ、誰にも」
黒い輪が脈打つ。つまり、誰かに呪われた。
明日の婚約宣誓で、司祭は「この結婚を望むか」と尋ねる。彼女が望まないと言えば、口からは望むと出る。家族も婚約者も、その呪いを知ったうえで式を急いでいた。婚約者が贈った首飾りをつけた日から、言葉は裏返り始めたのだ。証拠はなくても、答えだけは明白だった。
「永久に治す薬は、今夜では作れません」
「では、私は幸せです」
絶望しています、という意味だ。
ヴェルノは菓子瓶から半透明の角砂糖を一粒だけ取り出した。
「真声糖です。効くのは一文だけ。口に入れてから最初に話した言葉が、そのまま出ます」
エステルは疑うように砂糖を見た。
「試したら本番で使えない」
「ええ。だから試さないでください」
彼女の指が震える。こんな小さな粒に人生を預けるのが怖いのだ。
ヴェルノは包み紙へ砂糖を置き、さらに一行を書いた。
――答えたあと、誰に手を引かれても、自分の足で神殿を出ること。
「薬屋が人生の指図を?」
「用法です。薬が言葉を守っても、足までは守れませんから」
エステルの唇が、ほんの少し上がった。
彼女は銀貨を置こうとしたが、財布には一枚しかなかった。式から逃げれば、家名も財産も失うのだろう。
「代金は一枚です」
「安すぎて不安です」
「一文に二枚取る店は、長続きしません」
翌日の昼、ヴェルノは店で乳鉢を回していた。
鐘が鳴り、扉が勢いよく開く。エステルが息を切らして立っていた。豪華な花嫁衣装の裾は泥だらけ、首の黒い輪は消えている。
「司祭に、望みませんと言えました」
今度の言葉に歪みはない。
彼女は婚約指輪ではなく、金貨を一枚カウンターへ置いた。
「残りの真声糖を全部ください。私と同じ呪いを受けた侍女たちがいます」
ヴェルノが菓子瓶を持ち上げると、エステルは初めて声を立てて笑った。
彼女が瓶を抱えて出ていった直後。
店の前で馬車が止まり、ちりん、と鈴が鳴った。