嘘だけ青いインク

異動同意書の横に置かれた青いボールペンを見て、芙美は笑いそうになった。

高校時代、理央との交換日記には妙な決まりがあった。黒は本当、青は嘘。どちらか迷うことは青で書く。

三年の冬、理央は青い文字で書いた。

〈東京なんて行きたくない〉

美術大学の推薦に受かった翌日だった。

芙美は意味を正しく読めた。行きたくない、が嘘なら、理央は行きたい。小さな町を出て、絵を学びたくて仕方がない。

なのに次の頁で、芙美も青いペンを取った。

〈心から応援してる〉

嘘だった。

自分だけ地元の短大へ進むことが悔しく、置いていかれるのが怖かった。理央なら、青い色だけで気づくはずだった。

翌日の放課後、日記は窓際の机に伏せて置かれていた。

理央は何も責めず、最後に黒で一行だけ書いていた。

〈応援してくれなくても、友達でいてほしかった〉

芙美は返事を書けなかった。

青ならまた逃げることになる。黒で嫉妬を書く勇気もない。卒業式の日、理央にノートを返そうとしたが、「芙美が持ってて」と言われた。笑顔ではなかった。

二人は数年だけ年賀状を交わし、それも途切れた。

二十六歳になった芙美は、地元企業で働いている。今回の異動先はシンガポールだった。ずっと欲しかった海外事業の席なのに、家族や同僚には「別に行きたいわけじゃない」と言っている。自分が望んだと認めれば、失敗したとき逃げ場がなくなるからだ。

机の引き出しには、あの交換日記がまだある。

昼休み、芙美は最後の空白を開いた。青いボールペンを指で転がし、代わりに自分の黒い万年筆を取り出す。

〈私は理央がうらやましかった。置いていかれるのが怖かった。それでも、行ってほしかった〉

十年遅れの本当を書いても、日記が理央へ届くわけではない。これは謝罪の代用品ではなく、もう自分に嘘をつかないための記録だ。

芙美は同意書にも黒いインクで署名した。

退社後、空港行きの路線を調べる。

青いペンは机に残した。

鞄の中のノートには、黒い文字で新しい日付だけを書いた。