国境は恋から忘れさせる
東西を隔てる忘却門をくぐる者は、向こう岸にいる誰かとの記憶を一つ失う。
薬運びのローデンは、病の村と港町を往復するたび、アネッサとの思い出を置いていった。
五度目には、初めて手をつないだ日を。
十二度目には、彼女の誕生日を。
二十一度目には、二人で決めた結婚後の家の場所を。
アネッサは彼が忘れるたび、革表紙の帳面を開いた。
「これはあなたがくれた指輪」
「僕が?」
「これは初めて喧嘩した理由」
「ずいぶん細かいな」
「私しか覚えていないから」
ローデンは毎回、帳面の記録を信じた。
だが借りた記憶は知識にはなっても、胸の中で思い出にはならなかった。
三十度目の往復を前に、国境が永久に閉じられると決まった。
東には薬を待つ村と、ローデンの妹がいる。西にはアネッサがいる。最後にどちらへ残るか、選ばなければならなかった。
夕暮れ、彼は西へ渡ってきた。
門をくぐった彼は、アネッサを見て丁寧に頭を下げた。
「あなたが、帳面の人ですか」
ついに名前まで失ったのだ。
アネッサは三十冊目の帳面を渡さなかった。
読ませれば、彼は責任感から西へ残るかもしれない。覚えていない愛に、人生を支払わせることはできなかった。
「私はアネッサ。あなたを愛しています」
「以前の僕も?」
「何度忘れても、愛してくれた」
「なら、今の僕もそう言うべきでしょうか」
「言わないで。分からないことを、優しさで埋めないで」
閉門の鐘が鳴った。
ローデンは東へ戻らなければ、妹のもとへ帰れない。
「あなたは、どうするんです」
「ここで生きる」
「一人で?」
「あなたを覚えている人間が、一人くらいいてもいいでしょう」
彼は泣いていた。なぜ涙が出るのか、自分でも分からない顔だった。
「さようなら、アネッサ」
「今、名前を」
「あなたが教えたからです」
ローデンは門をくぐった。
最後の通行料として、彼の中から告白されたばかりの名前が消えた。
東岸へ着いた彼は、一度だけ振り返った。
門の向こうに女が立っている。誰なのか分からない。
それでも胸が、帰る場所を間違えたように痛んだ。
アネッサは帳面の最後に書いた。
〈三十度目。彼は私を忘れた。
それでも別れ際、理由を知らずに泣いてくれた。〉
記憶は国境に奪われた。
告白は彼を引き止めなかった。
ただ、忘れてもなお残る痛みだけが、二人が愛し合っていたことを、名のない形で証明していた。