圏外の受話器

城戸志門は、廃止された山岳観測所の備品確認を請け負った。大学院を辞めてから、こういう単発の仕事ばかりしている。標高千六百メートルの鬼呼岳には、地元の保存会が作った注意書きがあった。

〈圏外で電話が鳴っても、受話器を取ってはいけない〉

観測所までの登山道は立入禁止で、頂上には電線の切れた公衆電話が一台だけ残っているという。

志門は作業記録を音声入力した。

「十五時二分、観測室施錠。気圧計三、破損」

「十五時九分、公衆電話確認。回線なし」

電話ボックスの床には、古い住所変更届が何十枚も散っていた。転居先の欄はすべて観測所、氏名の欄だけが水ににじんで読めない。志門は受話器を持ち上げず、型番だけ撮影した。そのときベルが鳴った。古い金属音が、霧の中で二度、間を置いてもう一度響いた。

志門のスマートフォンは圏外だった。

電話は鳴り続けた。受話器のコードは根元から切断されており、硬貨返却口には新しい十円玉が一枚あった。表には志門の生年、裏には今日の日付が刻まれている。ベルが鳴るたび、観測所の窓から見える麓の町が一軒ずつ霧に沈んだ。妹が事故に遭った夜、病院からかかってきた着信音と同じ間隔だった。そんなはずはないと分かっていた。それでも志門は、一度だけ受話器を取った。

「現在地をどうぞ」

女の自動音声が言った。

志門は答えなかった。だが受話器の向こうで、自分の声が「鬼呼岳、旧観測所」と告げた。続いて、紙をめくる音。

「移転を受け付けました」

受話器を戻すと霧が晴れた。志門は日没前に下山し、妹にも電話した。元気な声を聞いて、くだらない怪談だったと笑った。

翌朝、携帯会社から留守番電話の文字起こしが届いた。

《お客様の回線移転が完了しました。以後、すべての着信は新しい所在地へ転送されます》

発信元は表示圏外。削除した直後、宅配業者から電話が来た。

「城戸さんのお宅、山頂で合っていますか。観測所の電話が鳴ってるんですけど、中から誰か出てこなくて」

志門は窓を見た。都内のワンルームの外は朝のはずだった。

ガラスの向こうに白い霧が張りつき、遠くで金属のベルが鳴った。

スマートフォンの住所帳が自動更新された。

《自宅:鬼呼岳旧観測所》

その下で、妹からの着信だけが「転送中」のまま止まっていた。