地下二階の清掃員

月曜の朝、開発部の会議室に清掃員が入ってきた。鴻上志津葉という名札を付け、白髪をひとつに束ねている。

部長は投資家向け資料を机いっぱいに広げていた。

「今は入るな。数字が読めない人間でも、空気くらい読めるだろ」

鴻上は無言でモップを止めた。

彼女は一週間前から、誰より早く出社していた。使われていない会議室の照明、深夜まで残る若手、鍵のかからない資料棚まで、清掃表の余白へ細かく書き込んでいる。部長はその紙を「年寄りの落書き」と丸めたが、彼女が見つけたサーバ室の水漏れだけは、設備担当を呼んで自分の手柄にした。若手たちは、それを知っていても口にできなかった。

鴻上は誰の愚痴にも相づちを打たず、退勤時刻と仕事量だけを尋ねた。清掃員に何が分かると笑われても、翌朝には壊れた椅子や切れた蛍光灯が直っていた。床に落ちていた一枚を拾い、資料の上に置く。

「この解約率、月次と年次が混ざっています」

「触るな!」

部長は紙をひったくった。若手社員が画面を確かめると、確かにグラフの単位が違っていた。だが部長は謝らず、若手に修正を命じた。

「清掃は地下二階だけにしてくれ。上の会議に顔を出したら契約を切る」

鴻上はバケツを押して出ていった。私は追いかけ、エレベーター前で頭を下げた。

「助かりました。あのまま説明していたら……」

「数字は、床の汚れより目立たないから厄介ね」

彼女はそう言い、地下へ下りるボタンではなく最上階を押した。

午後、海外ファンドとの資金調達会議が始まった。部長は磨き上げた英語で成長率を語り、最後に百億円の出資希望額を示した。

先方の代表は資料を閉じた。

「最終判断は、当ファンドの議決権を過半数保有する人物に委ねています」

奥の扉が開く。朝の制服を脱ぎ、紺のスーツを着た鴻上が入ってきた。社長まで立ち上がる。

「鴻上会長、現場視察はいかがでしたか」

彼女は部長の資料を指先で押し戻した。

「投資審査は、地下二階ではなく、今朝の会議室からやり直します」