声を戻す梨蜜
川沿いの小食堂《青い匙》で、ユイナは閉店札を裏返しかけていた。
開店から五日、売れたのは水夫への堅いパンだけ。甘い飲み物は女子供のものだと笑われ、仕入れた月梨が籠の中で熟れすぎている。今夜売れなければ、明日は煮崩して自分の朝食にするつもりだった。
そこへ風術師サルヴィが転がり込んだ。首には銀の伝令章。唇はひび割れ、声は笛のような空気しか出ない。椅子へ座るより先に、震える手で紙へ乱れた字を書いた。
――昼、山火事を押し返すため大風を吐き続けた。
――夜明け、下流三町へ避難命令を告げる。
――鐘楼の拡声石は、術者の生声にしか反応しない。
医師は朝まで喋るなと言ったらしい。だが朝まで黙れば、川沿いの民は逃げ遅れる。彼は喉を指してから、金貨を一枚卓へ押しつけた。
ユイナは薬棚を探さなかった。鍋に水を張り、薄切りの月梨を落とす。梨が透けるまで弱火で煮て、火を止めてから星蜂の蜜を一匙。沸騰させれば消える香りを、母に何度も叱られて覚えた。湯気の上に、甘さが丸く浮かぶ。
「熱いうちは、喋らないで」
サルヴィは両手で杯を包んだ。最初の一口を、痛みに耐えるように飲む。二口目で肩が下がり、三口目には乾いた咳が湿った。柔らかくなった梨を舌で潰すたび、裂けていた喉に薄い膜が戻っていくようだった。
窓の外では、火事の灰が雪のように川へ落ちている。サルヴィは焦って杯を傾けたが、ユイナは急かさず、空いた皿も置かなかった。今必要なのは、この一杯だけだ。
杯の底が見えたころ、彼は恐る恐る息を吸った。
「……西岸の者は、高台へ」
低いが、はっきりした声だった。壁に飾った古い拡声石がかすかに震え、店中の匙が一度だけ鳴る。
サルヴィは目を見開き、今度は大声を出そうとした。ユイナは指を一本立てる。
「残りは鐘楼で。効くのは最初の一刻です」
彼は深くうなずき、金貨を残して立ち上がった。梨蜜十杯分でも多すぎる。
「釣りを――」
「町三つ分の声だ」
かすれは残っていたが、笑う音はもう聞き取れた。
川霧へ消えた背中を見送り、ユイナが金貨の上に閉店札を置く。やがて遠い鐘楼から、サルヴィの声が夜を渡った。避難を告げる第一声に、家々の灯が一つずつ動き始める。
その声を追ってきたように、食堂の扉の鈴が鳴った。灰まみれの手が、外から《営業中》の札を指していた。