夜行列車に手紙は乗せない
昭和三十九年の春、加治屋奈津は東京の女子大学へ進学することになった。
町で大学へ行く娘は初めてだった。駅前には「祝・合格」の垂れ幕が下がり、教師も親戚も、奈津が故郷の誇りだと言った。
笹倉文代だけは、おめでとうを言わなかった。
二人は女学校の図書室で出会った。閉館後も机の下で手をつなぎ、貸出票の余白へ短い言葉を書いた。
〈今日、髪がきれい〉
〈明日もここにいて〉
〈好き〉
誰にも見つからないよう、同じ本を交互に借りた。
卒業後、文代は家の旅館を手伝う。父を亡くし、弟妹もいる。東京へ行くという選択肢は、最初からなかった。
出発の夜、ホームには町中の人が見送りに来た。
文代は旅館の名入りの前掛けをつけ、客へ配る弁当を届けたふりをしていた。
「手紙を書く」
人垣の陰で奈津が囁いた。
「書かないで」
「どうして」
「寮で誰かに読まれたら」
「友達からの手紙なら」
「私たちは、友達のふりが上手すぎたでしょう」
汽車の煙が屋根へ溜まった。
「東京で、好きな人ができるよ」
文代が言う。
「できない」
「作って。私を待っていたら、あなたは故郷を出たことにならない」
「文代は?」
「旅館を継いで、見合いをする」
「そんなこと、平気な顔で言わないで」
「平気な顔しか、ここでは許されないの」
発車の笛が鳴った。
人々の前で抱き合うことも、名前を叫ぶこともできない。
二人は同級生らしく、少し離れて頭を下げた。
「お元気で、加治屋さん」
「笹倉さんも」
それが別れの言葉だった。
座席へ着くと、弁当の下から一冊の本が出てきた。二人が最初に貸出票を使った詩集だった。
最後の欄に、文代の字がある。
〈好きでした。過去形なら、誰にも咎められないから〉
奈津は鉛筆を取り出した。
〈私は今も好きです〉
そう書いてから、頁を破らず閉じた。
手紙にはしなかった。
返せば、文代を町の噂にさらす。持ち続ければ、自分だけが二人の真実を守れる。
汽車は山を抜け、夜明け前に都会の灯を映した。
東京で奈津は多くを学び、別の人生を生きた。
それでも図書館で貸出票を見るたび、書かずに終えた手紙を思った。
二人の恋は、誰にも知られなかった。
だから別れたことさえ、世界には存在しなかった。
ただ一冊の本の中でだけ、過去形と現在形が、何十年も隣り合っていた。