始発で来る兄

 兄は毎月第二土曜、始発で来た。

 父の医療費を整理し、役所の書類を書き、日用品を箱で注文する。夕方になると「明日仕事だから」と最終列車で帰った。

 同居する妹には、観光客に見えた。

「一晩くらい泊まってよ」

「ホテルなら」

「実家なのに?」

「ここでは眠れない」

 その言葉で、妹の怒りが切れた。

「私は毎晩ここで寝てる。父さんが三回トイレに起きるたび、私も起きる。兄さんは数字だけ片づけて帰る」

 兄は何も言わず、駅へ向かった。

 次の月、妹は迎えに行かなかった。

 兄は駅から六キロ歩き、紙おむつの箱を抱えて玄関へ来た。父は兄を見るなり、亡くなった祖父の名前を呼び、杖を振り上げた。

「帰れ!」

 兄の顔から血の気が引いた。腕で頭をかばい、子どものように壁へ身を寄せた。

 妹は初めて知った。

 兄が十代のころ、祖父から繰り返し殴られていたこと。父は止めなかったこと。認知症になった父が祖父の口調で怒鳴るたび、兄の体が昔へ戻ってしまうこと。

「だから泊まれない」

 兄は震える手で言った。

「言い訳にしたくなくて、金と書類だけやってた」

 妹はすぐに謝れなかった。自分が背負ってきた夜の重さも本物だったからだ。

「じゃあ、直接介護は全部私?」

「違う。家に泊まらない形で引き受ける」

 兄は短期入所の手続きを進め、月一回、父を施設へ送迎する役を持った。通院は兄、夜間の緊急連絡は交代。妹が休む週末の費用は兄が多めに負担した。

 最初の短期入所の日、妹は一人で海へ行った。

 兄は父を施設へ送り、近くのホテルに泊まった。夜、妹へ写真を送った。父が職員と将棋をしている。

〈落ち着いてる〉

 妹は海の写真を返した。

〈こっちも〉

 妹は写真を送ってから、久しぶりに携帯電話の電源を切った。兄は緊急連絡先の一番上に自分の番号を入れた。

 翌朝、兄はまた始発の駅にいた。

 ただし今回は帰るためではなく、父を迎えるためだった。

 公平とは、同じ場所で同じことをすることではない。

 互いにできない理由を隠さず、片方の夜だけが永遠に続かない形を作ることだった。