字幕にない名前

越智航平は、動画配信会社で自動字幕の精度確認をしていた。仕事は退屈だが、怪談番組の担当だけは好きだった。

その夜の素材は、閉村した谷で採録された「穴守唄」の生配信だった。映像は黒い横穴と、民俗学者が手帳を読む姿だけ。資料袋の内側に、司書からの付箋が貼られていた。

《自動字幕に自分のフルネームが出ても、正しい読みを声にしてはいけない》

理由はない。航平は同僚とのチャットへ写真を送り、「こういう演出まで込みらしい」と笑った。

配信開始から二十分、字幕は学者の言葉を無難に変換していた。

「穴には名を置く。名があれば、人は帰れる」

字幕:

《穴には縄を置く。縄があれば、人は帰れる》

誤変換を修正していると、字幕エンジンの診断欄に《話者二名》と出た。映像には学者しかいない。二人目の音声波形は横穴の無音部分にだけ現れ、航平が椅子を動かすたび同じ長さで揺れた。学者が黙った場面で一行が出た。

《おちわたるひら》

航平の名前らしいが、読みが違う。コメント欄では視聴者が「誰?」と騒ぎ、上司からも《人名辞書にあるか確認》と来た。

字幕は繰り返した。

《おちわたるひら》

《おちわたるひら》

《名前がちがう》

仕事の癖が出た。航平は検証用マイクをオンにし、一度だけ発音した。

「越智航平。おち、こうへい」

横穴から、誰かが息を吸った。航平のヘッドセットにも、耳のすぐ後ろで同じ吸気が重なった。学者は配信中なのにこちらを見て、「直したな」と呟いた。字幕は正確に表示した。

《本人確認済み》

映像はそこで途切れた。

翌日、航平は会社の入館ゲートで顔認証に弾かれた。社員証をかざすと、画面に《氏名が一致しません》と出る。人事へ電話しても、登録に越智航平という社員はいないと言われた。

焦ってスマホの音声アシスタントを起動する。

「俺の名前は?」

端末は数秒考え、穏やかに答えた。

「その名前は現在、別の利用者が使用しています」

連絡先アプリの一番上に、昨夜までなかった自分の番号が増えていた。登録名は《越智航平》、状態は通話中。

耳を当てていないのに、スマホの内側から正しい発音が聞こえた。

「おち、こうへい。これで帰れる」