完済日の赤い丸

芦原享吾の手には、最後の振込明細があった。

離婚のとき、元妻が享吾の転勤について行くため辞めた仕事の分を、五年かけて補償すると決めた。裁判になったわけではない。享吾自身が提示した約束だった。毎月末、決まった額を送り、今日が最後の日だった。

水無瀬芙実は、その五年間のうち後半の二年を隣で見ていた。享吾が元妻をまだ愛しているとは思わない。けれど好きと言えば、完済を待っていた人のように見えそうで言えなかった。彼の過去に値札がついているわけではないし、払い終えたから次の人へ進めるわけでもない。

享吾は振込を隠さなかった。飲みに誘われても月末は断り、賞与が出ても先に約束分を分けた。芙実はその律儀さを好きになった一方で、自分だけが彼の『次』を待っているような後ろめたさも抱えた。赤い丸を見るたび、恋心まで入金待ちの数字になった気がした。

銀行の窓口が閉まるまで六分。享吾は明細を二つ折りにした。

「終わったら、話したいことがあるって言ったの覚えてる?」

「終わったらね、って言っただけ」

「今日、終わった」

「じゃあ、お疲れさま」

芙実は出口へ向こうとした。シャッターが半分下り、警備員が入口の札を裏返す。享吾が自動ドアの前に立った。

「どうして逃げるの」

「逃げてない」

「二年間、その話をするたび、話を変えた」

「だって、そのお金はあなたが前の結婚に払った罰じゃない。私が受け取る順番を待つものでもない」

享吾は明細を開いた。振込先と金額の下に、赤いペンで小さな丸がついている。

「これは罰じゃなくて、俺がした約束。守ったから偉いとも思ってない。払い終えたら芙実を好きになっていい、なんて許可証でもない」

「じゃあ何を話すの」

「来週の日曜、会ってほしい。過去の精算じゃなく、これからの予定として」

シャッターがさらに下り、二人は身をかがめて外へ出た。駅へ走れば、いつもの電車に間に合う。

芙実はスマートフォンの予定表を開いた。この二年間、享吾の給料日には赤い丸がついていた。今日の丸を消し、代わりに翌週の日曜を長押しする。

「終わったら、じゃなくて。始めるなら、来週から」

共有先に享吾のアドレスを選び、予定名を空欄のまま送信した。