家をひとりにしないで

 売却が決まった実家で、小名木芙季は最後の一晩を過ごすことになった。

 介護施設に入った母が、どうしてもと言ったのだ。

「明日、荷物を運び出すまで、家を一人にしないで。あの家は留守番が苦手だから」

 夕方、誰もいないはずの二階からランドセルの金具が鳴った。

 階段を下りてきたのは、七歳の芙季だった。昔着ていた赤いセーターで、台所の大人には目もくれず、宿題を始めた。

 六時には、亡くなった父が玄関を開けた。

「ただいま」

 作業着には冬の雨が染みていた。父は幼い芙季の頭を撫で、大人の芙季の体をすり抜けて食卓へ座った。

 七時、兄の柊平が帰ってきた。高校生のままの姿だった。

 彼は二十年前、家を出たきり消息が分からない。

 最後に、若い母が味噌汁を運んできた。

 四人は昔と同じ席に着き、同じ話をした。父は会社の愚痴を言い、兄は生返事をし、幼い芙季は人参を皿の端へ寄せた。笑い声も、椀の触れる音も、すべて壁の中に保存されていたようだった。

 大人の芙季だけが、席を与えられなかった。

 夜が深まると、家族は一人ずつ立ち上がった。

 父は夜勤へ行くと言い、兄は友人に会うと言った。若い母は病院へ、幼い芙季は学校へ向かった。

 出ていくたび、全員が大人の芙季を見て言った。

「留守番、お願い」

 玄関の戸が閉まると、外から鍵を掛ける音がした。

 午前二時、施設から電話が来た。

『お母様が先ほど亡くなられました』

 電話を切ると、台所に老いた母が座っていた。施設にいるはずの寝間着姿で、湯のみを両手に包んでいる。

「これで、みんな帰ってきたね」

「帰ってきてない。みんな出ていったでしょう」

 母は不思議そうに首を傾げた。

「家にとって、出ていった人と帰ってきた人は同じなの。覚えているうちは、ずっと中にいるから」

 壁の奥で、家族の足音が重なった。

 何十年分もの「いってきます」と「ただいま」が、部屋から部屋へ行き交っている。

「じゃあ、誰が留守番していたの」

 芙季が尋ねると、母は彼女の背後を指した。

 幼い芙季が立っていた。

 赤いセーターの胸に、家の鍵を握っている。

「ずっと私だよ」

 翌朝、芙季は逃げるように実家を出た。

 振り返ると、二階の窓から幼い自分が手を振っていた。

 一週間後、取り壊されたはずの家の廊下が、芙季のマンションの寝室と台所の間に現れた。

 日ごとに一部屋ずつ増えている。

 今夜は、玄関まで戻ってきた。

 向こう側から母の声がする。

「家を一人にした罰よ。今度は、あなたの家に留守番してもらうから」