家賃は思い出で

 矢切おとわが借りた部屋は、駅に近いのに家賃が妙に安かった。

 入居して最初の月、管理人から電話が来た。

『半月分しか振り込まれていませんよ』

 慌てて通帳を確認したが、その日の夕方には領収書が郵便受けへ入っていた。

〈残額は同居人より受領しました〉

〈支払方法:夏祭りの帰り道、一件〉

 おとわに同居人はいない。

 けれど、その夜から夏祭りの記憶だけが抜け落ちた。誰と行ったのか、何色の浴衣だったのか、思い出そうとすると頭の中に白い道だけが続いた。

 代わりに、部屋のどこかで鼻歌が聞こえた。

 知らない声なのに、その歌を昔から知っている気がした。

 翌月の領収書には、

〈父親のカレーの味、一件〉

 とあった。

 その夜、帰宅すると台所から香辛料の匂いがした。鍋には二人分のカレーがあり、見えない誰かが向かいの椅子を引いた。

「あなたなの」

 返事はなかった。

 ただ、食卓の右側でスプーンが皿に触れた。

 毎月、家賃の半分と引き換えに、おとわは何かを失った。

 親友の笑い方。初恋の横顔。祖母の手の温度。

 忘れるたび、同居人はそれを身につけた。暗い部屋で親友の声が笑い、廊下を初恋の足音が歩き、眠れない夜には祖母の手つきで布団が掛けられた。

 怖いはずなのに、おとわは帰宅を楽しみにするようになった。

 誰かが待っていて、黙って話を聞き、失った人たちの声で「おかえり」と言ってくれる。

 ある晩、机に紙を置いた。

〈あなたは誰ですか〉

 翌朝、返事があった。

〈あなたが、一人ではいられないときにできる人です〉

 おとわは荷造りを始めた。

 このままでは、自分が空になる。

 退去届を出すと、管理人は首を振った。

『同居人が払った分を精算しないと、解約できません』

「お金なら返します」

『思い出でいただいていますから、同じもので返してください』

 返せるものは、もう覚えていなかった。

 その夜、見えない同居人が初めて肩を抱いた。

 いくつもの懐かしい手の重なりだった。

「ここにいて」

 忘れた人々の声が、同時にささやいた。

 翌朝、おとわは契約更新書に署名した。

 なぜ玄関に旅行鞄があるのか、不思議に思いながら。

 新しい領収書が届いていた。

〈次月分を前払いで受領しました〉

〈支払方法:この部屋から出たいと思った理由、一件〉