小さく始める契約
クラウド勤怠システムの営業・叶野澄香は、午後三時の商談で説明を終える前に断られた。
「全社導入でまた止まったら困る。去年、別会社で給与計算が一日遅れた」
物流会社の経理部長は腕を組み、画面を閉じようとした。澄香の上司は隣で、値引き表に手を伸ばした。
澄香は価格の話をせず、去年の導入日を尋ねた。月末最終営業日。しかも全社員千二百人分を一度に切り替えていた。
「失敗した原因は製品だけではありません」
経理部長の目が険しくなる。
澄香は謝ってから、古いシステムの画面を見せてもらった。現場ごとに打刻の締め時刻が違い、本社だけが翌朝に修正している。新しい仕組みに合わせて一斉に権限設計を変えれば、誰が修正できるか分からなくなる。止まるのはサーバーではなく、人の判断だった。
彼女は提案書の全社導入を線で消した。
まず社員八十人の営業所だけでPoCを行う。旧システムは閲覧可能なまま残し、二週間は両方に記録する。問題がなければ、給与締めの翌日に次の拠点へ広げる。カットオーバーを一日ではなく四回に分ければ、異常が起きても戻せる。
営業所責任者も会議へ呼ばれた。彼は、本社が知らない夜勤者の代理打刻手順を話した。澄香は説明資料の順番を変え、機能一覧より先に、誰がいつ修正するかを一枚にした。導入失敗の多くは、説明を聞いていない人から始まる。
「それでは売上が今期に全部立たないぞ」
上司が小声で言った。
澄香は聞こえないふりをした。千二百人を一度に契約させれば数字は大きい。だが、失敗すれば顧客の給与日が傷つき、次の契約はない。
経理部長は消された提案書を引き寄せた。
「八十人分なら、現場責任者をここへ呼べる」
商談は予定を四十分超えた。決まったのは全社契約ではなく、小さな検証契約だった。
ビルを出たとき、上司の携帯が鳴った。別の顧客が「来月一日から全社で使いたい」と言っているらしい。
澄香は鞄から白紙の導入表を出した。
「まず、その会社の締め日を聞きましょう」