小数点の左側
門脇結衣は菓子工場の分析室で、学校給食向けチョコレートのアレルゲン検査を担当していた。納入契約の決裁会議に呼ばれたのは、検査証明書へ担当印を押すためだった。
落花生たんぱくの基準は一キログラム当たり〇・一ミリグラム未満。証明書には〇・〇八とあり、工場長の原田は「余裕で合格だ」と笑った。
結衣のノートには〇・八と書かれていた。十倍の超過である。
「お前の転記ミスだ」と原田は言った。「装置の正式出力が〇・〇八だ」
結衣は装置の生データを開いた。分析計は必ず小数点以下三桁で出力する。元の値は0.800。会議用PDFだけが0.080に書き換えられていた。しかも変更者欄には原田の社員番号が残っている。
原田は、単位を換算したのだと説明した。結衣は契約書の別紙をめくった。単位は分析計と同じmg/kg。換算の余地はない。
給食センター長は納期を気にした。来月分が止まれば、献立を組み直さなければならない。
結衣は代替製造ラインの在庫表を差し出した。乳製品不使用の焼き菓子なら必要数を確保できる。会社に損失は出るが、子どもへ基準超過品を渡す理由にはならない。
原田は結衣の印鑑を指した。「押せば数字は会社の責任になる。押さなければ、お前一人の測定ミスだ」
結衣は朱肉の蓋を閉じた。さらに検体瓶の封印番号を読み上げる。証明書の番号末尾は42、生データは24。二桁を入れ替えた別検体に見せかけていたが、保管庫の入出庫記録では42番は未使用だった。
給食センターの法務担当が契約書を回収した。
会議室の後ろには、すでに印刷された『アレルゲン管理済み』の箱が積まれていた。結衣は包装開始時刻を確認した。分析結果の確定より二時間早い。原田は通常の先行作業だと説明したが、箱には結衣の検査済み印まで印刷されていた。結論は測定前から決められていた。
〇・〇八と〇・八。小数点の左側に残った一つのゼロが、三千校分の決裁を止めた。