岸に着いたのは誰
黒い波が渡し舟を裏返したとき、グレイドは水底で目を覚ました。
鰓の間へ冷水が入り、背の棘がひらく。彼は溺れた人間を岸へ運ぶために造られた異形だった。だが救いには規則がある。一人の命を水から取り戻すたび、その者が沈みながら見た最後の記憶が彼へ流れ込み、代わりに彼自身の記憶が一つ、押し出される。
最初に掴んだ女は、沈む直前まで焼き菓子の包みを抱いていた。岸へ投げ上げた瞬間、グレイドの中から、春の匂いが消えた。
二人目は老兵だった。水中で妻の名を呼んでいた。助けると、グレイドは自分がどこで鰓を得たのか忘れた。
三人、四人、五人。
舟板の下から手を引き抜き、濁流を蹴る。人々の恐怖が胸の中へ積もった。閉まる扉。泣く赤子。置き去りにした犬。彼自身の思い出は、押し出された泡のように水面で弾けていく。
岸から、少年レシムの声がした。
「父さんがまだ!」
グレイドは再び潜った。
舟の底には、縄へ足を絡めた男がいた。もう息はなく、その腕の中で小さな木箱だけが揺れている。箱には薬瓶が入っていた。少年のための薬だと、男の最後の記憶が教えた。
死者は救えない。だが箱を持ち帰れば、契約は一人分として数えられ、彼の記憶が奪われる。それが水の魔女の定めた悪意だった。
グレイドは縄を切り、箱を抱いた。
男の最後の記憶が流れ込む。
幼いレシムを肩車した日。熱を出した額。父と呼ばれた喜び。必ず帰ると交わした約束。
代わりに消えたのは、グレイドという名を与えられた夜だった。
岸へ上がると、少年が箱を奪うように抱きしめた。助かった者たちが異形へ礼を言う。けれど彼には、なぜ自分が水から現れ、なぜ皆が自分を見ているのか分からない。
レシムが泣きながら近づいた。
「グレイドさん。父さんは?」
その顔を見た瞬間、胸が裂けるほど愛しかった。知らないはずの少年なのに、髪の癖も、眠る前に右手を握ることも知っている。
グレイドは濡れた爪で少年の頬へ触れた。
「ここにいるよ、息子」
レシムが凍りついた。
朝の光の下で、異形の瞳は男と同じ茶色へ変わっていた。水面には、鰓と棘を持つ父親の顔が映っていた。