峠でひとつ置いてくる

 榎並孝紀が五年ぶりに帰省すると伝えると、母は電話で妙なことを言った。

『哭石峠を越える前に、待避所のお堂へ寄って。自分の物をひとつ置いてきなさい』

「何でもいいの?」

『使いかけの物がいい。絶対に、何も置かずに越えないで』

 子どものころにも聞いた風習だった。

 帰省客は旅の垢を故郷へ持ち込まないよう、峠に何か残すのだという。

 当日は激しい雨だった。

 待避所のお堂には、傘、イヤホン、片方だけの靴、名前入りの水筒まで積まれていた。孝紀は気味が悪くなった。財布にも鞄にも不要な物はなく、どうせ迷信だと車へ戻った。

 峠を越えた途端、助手席のシートベルト警告音が鳴った。

 座席には誰もいない。

 後部座席から、濡れた子どもが歯を鳴らすような音がした。ミラーを見ても、暗い座席に小さなくぼみがあるだけだった。

 実家へ着くと、母は孝紀の背後を見て顔をこわばらせた。

「何を置いてきたの」

「古いハンカチ」

 嘘をついた。

 母は何も言わず、玄関に塩をまき、父へ目配せした。

 夕食の席には、家族三人なのに茶碗が四つあった。

 空席の箸が時々動き、煮物が一つずつ減った。父は見ないふりをし、母は何度も仏間を振り返った。

 深夜、子どもの足音が廊下を走った。

 父の部屋で戸が開き、短い悲鳴がした。

 朝になると、父はいなかった。

 代わりに、食卓には見知らぬ小学生の男の子が座っていた。母は当然のようにその子の髪を整え、「兄ちゃんに挨拶しなさい」と言った。

「父さんはどこ」

 母は不思議そうに首を傾げた。

「父さん? うちは昔から母子家庭でしょう」

 玄関には父の靴も杖もない。

 スマートフォンの連絡先からも、父の名前だけが消えていた。

 孝紀が昨夜のことを訴えると、母の顔から血の気が引いた。

「あんた、本当は何も置かなかったね」

 男の子が味噌汁をすすり、孝紀へ笑いかけた。

 母は震えながら言った。

「あのお堂に置くのは、旅の垢じゃない。ついてきたものに、家まで来る代わりを選ばせるためよ」

 男の子は父の箸を使っていた。

「来年も帰ってくる?」

 父と同じ口調で尋ねた。

「次は誰を置いていくの?」