希望年収の空欄
高遠日和は、内定承諾書の「希望年収」だけを空欄にしていた。
転職先は小さな出版社だった。担当するのは、ずっと作りたかった実用書の編集。提示額は現在より四十八万円低い。家賃も奨学金も変わらないのに、好きという理由だけで数字を軽く扱うほど、二十九歳は若くない。
ノートの左ページに今の年収、右ページに提示額を書く。左には賞与、住宅手当、慣れた業務。右には担当予定の企画名、少人数、残業の少なさ。比較しているうちに、数字は家計簿ではなく性格診断のようになった。
その夜、人事から一通だけメールが来た。
〈条件面で懸念があれば、承諾前にご相談ください〉
日和は「問題ありません」と返信しかけた。内定を失いたくない気持ちが、物分かりのいい応募者を演じさせようとする。けれど、入社前から黙って耐えるなら、会社を変える意味は何だろう。
電卓には二つの数字が残っていた。現在の月給と、最低限必要な月給。差は三万二千円。大きい。けれど、交渉することは辞退することではない。
家計簿を開き、家賃、光熱費、返済額、月に一度の美容院まで足した。削れるものには線を引いたが、生活を細くしすぎて仕事を好きでいられなくなる金額は、節約ではなく前借りだと思った。希望額は夢の値段ではなく、働き続けるための条件だった。
日和は希望年収の欄に、提示額より三十六万円高い数字を書いた。備考には、これまでの編集経験と、担当できる業務を簡潔に記した。最後に「上記条件について相談を希望します」と添えた。
送信後、すぐに後悔が来た。欲張りと思われたかもしれない。若い応募者に替えられるかもしれない。画面を閉じても、心臓は閉じられなかった。
翌朝の返信には、満額ではないが調整可能とあった。内定は消えていなかった。
日和は、了承された数字より、自分で書いた数字をしばらく見つめた。転職するかどうかの前に、安く扱われないための線を自分で引いたのだ。
承諾書に署名しながら、日和はその線から先の暮らしを、誰の厚意にもせず引き受けた。