廊下は走らない
「廊下は走らないこと」
剣術学院の生活指導を任されたドルガン・レイツは、毎朝そればかり言っていた。名剣の握り方より靴紐の結び方を注意し、模擬戦の勝者より廊下を磨く用務員を褒める。生徒たちは、腹の出た中年教師を「歩く校則」と呼んでいた。
夕暮れ、罰当番の少女ミュラは廊下の窓を拭いていた。向こうの曲がり角から、誰かがものすごい速さで走ってくる音がする。
現れたのは人ではない。鏡面の鎧を着た暗殺騎士が、床にも壁にも触れず滑ってきた。狙いは学院地下に封じられた王家の剣。警報結界をすり抜けるため、時間の隙間を走る怪物だった。
『退け、老いぼれ』
ドルガンは出席簿を脇に抱えたまま、壁際の木製定規を拾った。
「聞こえなかったか」
定規が一度だけ横に動く。
暗殺騎士は彼の横を通り過ぎたように見えた。だが三歩先で、鎧も短剣も走る勢いさえも細い輪切りになった。金属片が床へ落ちる前に、ドルガンは出席簿を開いてすべて挟み込む。黒い煙だけが一筋漏れ、それも窓拭きの布でぬぐわれた。
ミュラには剣筋が見えなかった。ただ、王国最速と呼ばれたはずの怪物が、教師の袖一つ揺らせなかったことだけは分かった。
暗殺騎士が地下へ届けば、王家の剣は奪われ、学院は戦場になっていたはずだ。だが警報は鳴らず、教室からは部活動の笑い声が聞こえている。ミュラは、ドルガンがいつも曲がり角で歩調を緩める理由を理解した。あれは小言ではない。誰より先に危険を見つけ、子どもがぶつかる前に止める者の歩き方だった。だから彼自身は、決して急いでいるように見えない。
ドルガンは出席簿ごと焼却炉へ放り込み、新しいものを職員室から持ってきた。床の傷には蝋を塗り、定規を元の釘へ掛ける。そこまで終えてから、彼は窓際で固まる少女を見た。
「いまの、剣だったんですか」
「定規だ。備品を勝手に武器にするなよ」
彼はバケツを示した。ミュラは慌てて歩き出す。
背後で、いつもの注意が落ちた。
「廊下は走らないこと」