影は玄関で待っていた

レアナの町では、人が死ぬと影だけが一日残る。

影は夜明けに亡骸から抜け出し、生前もっとも心を置いた場所を順にたどる。遺された者は後を追ってよい。ただし呼び止めても、影は振り返らない。

熱病でバシュを失った朝、レアナは黒い影を追った。

影は鐘楼の階段へ行った。二人が初めて雨宿りした場所だった。

香辛料店の前では、彼が嫌っていた香草の籠に触れた。レアナが好きだから、毎週黙って買ってきたものだ。

川の石橋では長く立ち止まった。そこで二人は一度だけ別れ話をし、三歩歩いて同時に戻った。

町の者は、影の最後の行き先こそ、死者の本当の望みだと言った。

レアナは怖かった。バシュが自分の知らない港や、昔の恋人の家へ向かうかもしれない。死者にはもう、優しい嘘をつく必要がない。

だが影は市場を抜け、見慣れた路地へ入った。

曲がり角を二つ過ぎ、洗濯物の下をくぐり、二人の家の前で止まった。

扉は朝から開いたままだった。

それでも影は中へ入らず、敷石の上に腰を下ろす形になった。

レアナは思い出した。

パン焼き職人の彼女は、いつも夜明け前に家を出た。夜警だったバシュは仕事を終えると、鍵を持っているのに玄関先で待っていた。

「中は暗いから」

そう言って、帰ってくるレアナへ毎朝「おかえり」を渡した。

影が最後に戻りたかった場所は、家の中ではなかった。

彼女を待つ、この一歩手前だった。

太陽が傾き、影の輪郭がほどけ始めた。

レアナは隣に座った。触れれば敷石の冷たさしかなかった。

「ただいま、バシュ」

影は振り返らない。

けれど伸びた二人の影が一瞬重なり、ひとつの長い影になった。

日が沈むと、それも消えた。

翌朝、レアナは一人で扉を閉め、パン窯へ向かった。

帰宅したとき、玄関には誰もいないだろう。

それでも敷石をまたぐ前に、彼女は毎日言うことにした。

「帰ったよ」

死別とは、愛した人が遠くへ行くことではない。

「おかえり」の届く距離から、たった一歩だけ動けなくなることだった。