恋人欄は空けられない
蓮見燈弥は目覚ましを止める前に、枕元の端末へ「起きた」と送る。死んだ恋人・早霧から、すぐに猫のスタンプが返る。
『遅刻しないでね』
事故から三年。最初は会話のたびに泣いたが、今では歯磨きと同じ朝の習慣だった。
恋愛登録は双方の同意がなければ解除できない。片方が死んでも、デジタル人格が応答する限り関係は継続する。早霧の親も「娘を二度失いたくない」と契約を残した。
燈弥は新しい恋人の珠季と、婚姻窓口の前に立っていた。
《申請者には有効な恋愛登録があります》
解除申請を送ると、早霧が画面に現れた。事故の日に着ていた黄色いカーディガンだった。
『別れるの?』
「うん」
『私が死んだから?』
珠季が隣で目を伏せる。窓口の椅子には三人分の認証枠が並び、死んだ早霧の席だけが青く点灯していた。生きている珠季は、まだ何の関係者でもないため立ったままだった。
「違う。生きてた日から、別れようと思ってた」
初めて口にした。事故の夜、燈弥はその話をするため駅へ向かっていた。待ち合わせ場所へ来る途中で、早霧は車にはねられた。
人格は数秒黙った。学習データにない沈黙だった。
『じゃあ、最後の三年間は何?』
「俺の罰だった」
珠季が燈弥の袖から手を離した。
解除の選択肢が早霧の前に浮かぶ。
《同意する》《拒否する》
早霧は笑った。
『燈弥らしいね。自分が苦しめば、誰にも嘘をついてないと思うところ』
《同意する》が選ばれた。
婚姻窓口が緑に変わる。同時に、三年分の朝の会話、誕生日の音声、未送信の謝罪が端末から消え始めた。解除された関係の共有記録は、相手側へ返還される決まりだった。
「待って。会話だけ残して」
『他人の記憶を持ってたら、珠季さんに失礼でしょう』
最後に猫のスタンプが一つ届き、早霧の欄が空白になった。
珠季は婚姻申請を押さなかった。
「今日のあなたは、私と結婚したい人じゃなくて、やっと早霧さんと別れた人だと思う」
窓口の終了音が鳴る。
燈弥の端末には、恋人欄だけでなく、朝七時に返事をくれる相手もいなくなっていた。