戸籍の余白に春
私は昭和二年、町役場で戸籍を扱う書記だった。
家の名を墨で写す仕事である。
生まれた者、嫁いだ者、養子に入った者。人の一生は欄の中へ収まり、余白へ事情を書くことは許されなかった。
三月の朝、北見惟継と宇佐見初瀬が婚姻届を持ってきた。
惟継は製糸問屋・北見家の養子だった。十歳で分家から引き取られ、家業を継ぐ代わりに、いずれ本家の娘と夫婦になると決められていた。
初瀬は尋常小学校の代用教員。二人は夜学で出会い、五年間、人目を忍んで会っていた。
届には二人の署名があった。
ただし、北見家の同意欄だけが空白だった。
「これを受け取れば、どうなります」
惟継が訊いた。
「養家から廃除を申し立てられるでしょう。北見の姓も、店も失うかもしれません」
北見家は前年の不況で多額の借金を抱えていた。惟継が当主となることを条件に、銀行は融資を続けている。彼が抜ければ、工場の女工百人が職を失う可能性があった。
初瀬は静かに言った。
「分かっていました」
惟継は彼女を見なかった。
「先生を辞めて、遠くへ行こう」
「それで工場が潰れたら、私はあなたを愛したことまで後悔する」
「では、このまま家の決めた人と」
「そうして。私のためではなく、あなたが守りたいもののために」
惟継は婚姻届を二つに折った。
破るのかと思ったが、折り目をつけただけだった。
「初瀬。待たなくていい」
「待ちません」
「忘れて」
「それは役所でも命じられないでしょう」
二人は笑った。
届は提出されなかった。
翌月、私は北見惟継と本家の娘との婚姻を戸籍へ記した。
初瀬は町を離れ、県立女学校の教員になったと聞いた。
二十年後、古い書類を整理していると、あの日の届が帳簿の間から出てきた。惟継が置き忘れたのか、私が返し忘れたのか、もう覚えていない。
紙には折り目があり、二人の名が並んでいた。
戸籍には一度も並ばなかった名だった。
私は廃棄印を押そうとして、やめた。
公文書ではない。ただの紙切れである。
それでも余白に、小さく日付を書いた。
〈昭和二年三月。春の雪。届出なし〉
役所の記録に恋は残らない。
だからせめて、二人が一度は同じ姓の未来を選ぼうとした朝だけを、欄の外へ置いておきたかった。