手術室の九秒
三津門千紗の父が死ぬまで、九秒しかなかった。
手術支援AIの「九秒復元」が暴走し、執刀医の千紗だけを保存点へ戻していた。
心拍計が乱れ、助手が「血圧低下」と叫ぶ。千紗が鉗子へ手を伸ばす。父の瞳孔が開く。電子音が一本に伸びた瞬間、手術室は九秒前へ戻る。
最初の百回、千紗は医師だった。止血位置を変え、薬剤量を調整し、助手の手順を入れ替えた。父の胸は百通りに開かれ、百通りに閉じた。どの方法でも、九秒後には同じ音が鳴った。
次の百回、千紗は娘になろうとした。
「お父さん、聞こえる?」
「昔のこと、怒ってないから」
「もっと会いに行けばよかった」
麻酔の浅い父は、唇を動かすだけだった。答えを聞き取る前に時間が戻る。
父は家を出た千紗を「親不孝者」と呼び、千紗は進路を否定した父を二十年許さなかった。緊急搬送された夜、執刀できる心臓外科医が彼女しかいなかった。
五百回目を越すと、謝罪の言葉も底をついた。千紗は父の死より、同じ九秒を繰り返すことのほうを恐れ始めた。やがて心拍計の音に苛立ち、父の顔を見ないまま機械的に手を動かした。
千二百四回目、鉗子を落とした。
金属音が床に響いた。助手が拾おうとしたが、千紗は止めた。もう間に合わないことを、誰より知っていた。
彼女は手袋のまま父の手を握った。
「怖い?」
父の目が、ほんの少し動いた。
「おまえが、いる」
それだけだった。九秒後、心拍は止まった。
千紗は目を閉じ、次の九秒を待った。だが時計は進み続けた。助手の泣き声も、麻酔医の報告も、戻らなかった。
父を救えなかったという事実は変わらない。千紗は手術記録に、医学的に正しい失敗を書いた。自分が最後の九秒で手を止めたことも、隠さなかった。
半年後、彼女は終末期患者の手術を専門にするチームへ移った。治すための手術だけでなく、痛みを減らし、別れの時間を残すための手術をする。
若い医師が「諦める線引きはどこですか」と尋ねるたび、千紗は答える。
「線じゃない。目の前の人に、毎回聞くの。何が怖いですか、って」
九秒は短い。だが、人を患者から人へ戻すには、十分なこともある。