拍手の匂い

人間は、目で道を覚えるらしい。

ぼくと絃葉は、足音と匂いで覚えた。

駅前のパン屋は朝になると甘い。三つ目の信号には鉄の焦げた匂いがある。音楽院の階段は十二段目だけ少し欠けていて、絃葉の靴がそこで迷う。だからぼくは、いつも半歩だけゆっくり上った。

ぼくの名はポルカ。深見絃葉の盲導犬だった。

「だった」という言葉を、ぼくは絃葉の姉の家で覚えた。十歳になった春、脚が痛くなり、白いハーネスを若い犬へ渡した。絃葉は笑って「卒業おめでとう」と言ったが、頬からは塩の匂いがした。

姉の家は優しかった。庭は広く、食事には薬を混ぜた肉が載った。けれど朝になるたび、ぼくは玄関で待った。絃葉の足音が、どこかから迎えに来る気がした。

半年後、その足音は本当に来た。

絃葉は黒い服を着ていた。指先には弦の松脂、額には不安の汗。姉がぼくの首輪をつけると、絃葉はしゃがんで耳を包んだ。

「今日だけ、もう一度、隣にいて」

大きなホールの舞台裏は、知らない匂いで満ちていた。花、木の床、百人分の香水。絃葉は白い杖を握り、もう片方の手でバイオリンを抱えていた。

開演を告げるベルが鳴る。彼女は一歩進み、止まった。

ぼくには、わかった。音楽院の十二段目と同じだ。見えない小さな欠け目が、彼女の前にある。

白いハーネスはもうない。仕事をしてはいけないことも知っている。それでもぼくは立ち上がり、彼女の膝へ鼻をつけた。

絃葉の手が、昔のようにぼくの頭へ触れた。

「うん。行けるね」

舞台へ向かう足音は、最初は震え、やがてまっすぐになった。

ぼくは袖で伏せた。人間の音楽はよくわからない。高い音は鳥に似て、低い音は遠い雷に似ていた。ただ、その夜の絃葉の音には、駅前のパン屋も、三つ目の信号も、十二段目の欠けた階段も入っていた。ぼくたちが歩いた道の匂いがした。

最後の音が消えると、客席から大きな波が来た。手と手を打つ音。花と涙と熱い息の匂い。

絃葉は舞台の中央で言った。

「最初に私をここまで連れてきてくれた相棒に、この拍手を半分ください」

波がもう一度、ぼくへ押し寄せた。

拍手に匂いがあることを、その日初めて知った。

それは、帰る場所の匂いだった。