拝啓_個室の前で順番をくれたあなたへ
拝啓、個室の前で順番をくれたあなたへ
あなたの名前を、私は知りません。
七年前の四月、中央駅の女子トイレには長い列ができていました。
私は列の最後へ並びましたが、すぐに腹部の痛みが強くなりました。持病のため、突然、数分も我慢できなくなることがあります。
けれど外見からは分かりません。
顔色が悪くても、若くて立っていられる私は、順番を譲ってもらう理由を説明できない気がしました。病名を知らない人へ話すのも、失敗してしまうかもしれない恐怖を口にするのも恥ずかしかったのです。
私は一度だけ、「すみません」と言いました。
その先が出ませんでした。
あなたは私の顔を見て、理由を尋ねませんでした。
「お急ぎですよね。先にどうぞ」
そう言って、ご自分の前を空けました。
さらに前の人へも、「この方、先でいいですよね」と声をかけてくれました。
誰も嫌な顔をしませんでした。列が左右へ少しずつ開き、私は一番前まで進みました。
あの日、私は新しい職場の初出勤でした。
もし間に合わなければ、服を汚し、誰にも会えず、そのまま帰っていたと思います。病気の自分には働けないと決めつけ、採用を辞退していたかもしれません。
けれど個室から出ると、あなたはもういませんでした。
私は駅の鏡で顔を洗い、職場へ行きました。
仕事は七年間続いています。体調を崩す日も、休む日もあります。それでも、あの日の私は「迷惑をかけた人」ではなく、「順番を譲ってもらった人」として一日を始められました。
先月、同じ駅のトイレで、制服姿の少女が列の後ろに立っていました。
唇が白く、鞄を強く抱いていました。私は事情を聞かず、あなたと同じ言葉を使いました。
「お急ぎですよね。先にどうぞ」
少女は泣きそうな顔で頭を下げました。
拝啓、個室の前で順番をくれたあなたへ。
あなたの親切は、私の病気を治してはいません。
ただ、急ぐ理由を人前で証明しなくても、尊厳を守ってもらえる瞬間があると教えてくれました。
だから今、あなたの名前を知らないまま、その一人分の順番を次の誰かへ渡しています。