放課後だけ敬語禁止
「榛葉さん、黒板消しをお願いできますか」
八代朝陽がそう言った瞬間、榛葉志乃は机に正の字を一本足した。
「今ので七回目です」
「何が」
「敬語。放課後だけ禁止だと、八代君が言いました」
「俺が禁止したのは榛葉の方」
「規則は公平であるべきです」
二人は居残って、文化委員会のアンケートを数えていた。ほかの委員は部活へ逃げ、教室には西日と紙の山しかない。
朝陽が最初に言ったのだ。「二人しかいないのに、委員長みたいに話すのやめない?」と。志乃は三秒考え、「では、敬語を使った方が机に一本落書きをする罰則で」と決めた。
机の隅には、朝陽が七本、志乃が五本。どちらも普段の言葉が抜けず、会話をするほど証拠が増える。
「これ、賛成が三十二……だよ」
志乃が慎重に言う。
「今の間は何」
「敬語への助走を止めたの」
「変なの」
「八代君に言われたくない」
「朝陽でいい」
志乃の鉛筆が止まった。
「下の名前は、規則に含まれていません」
「二人きりなら名字もいらないだろ」
「そういう急な変更は困る」
「委員長、予定外に弱いもんな」
「委員長って呼ばないで」
声が少し強くなり、教室へ響いた。志乃は自分で驚いた顔をした。朝陽は笑わなかった。
「分かった。志乃」
夕日が机の正の字を赤く染める。志乃は返事の代わりに、朝陽の側へ一本線を足した。
「何で俺の罰?」
「今、呼び捨てにしました」
「それは禁止されてない」
「私の心の規則にあります」
「知らない規則で裁くなよ」
朝陽が消しゴムを投げ、志乃が受け損ねた。二人で机の下を探し、同時に頭をぶつけた。静かな教室に、今度こそ笑い声が長く残った。
集計が終わるころ、正の字は十を越えていた。志乃は雑巾を手にしたが、朝陽が止めた。
「明日消せばいい。今日は記録」
「落書きを残すのは校則違反です」
「はい、敬語」
朝陽が最後の一本を書く。志乃はしばらくそれを見てから、隣に小さく付け足した。
――放課後のみ有効。
「帰ろう、朝陽」
罰の線を引き忘れたのは、たぶんわざとだった。