新人に三十年
阿久津依知が看護師になった年、病院は新人研修を廃止した。
代わりに人員配置AIが、全員へ退職者の臨床記憶パックを貸与した。点滴の針が入りやすい血管の見分け方、急変前の呼吸音、家族へ死亡を告げるときの間の取り方。依知が受け取ったのは、三十七年勤務した看護師の記憶だった。
初日から、依知の手は迷わなかった。医師より先に異変を見抜き、泣く家族へ適切な言葉を渡した。患者は「若いのに安心する」と言い、上司は最短の昇進候補に挙げた。
ただ、夜になると知らない死者が夢に出た。
痩せた老人が「もう一度、桜を」と頼み、赤い靴の少女が冷たい指を握った。依知自身は会ったことがない。それでも目覚めるたび、何十人分もの喪失が胸に沈んでいた。
半年後、八歳の患者が手術を拒んだ。記憶パックは、子どもには選択肢を絞り、落ち着いた声で説得せよと教えた。依知は完璧な手順で話し、同意書に署名させた。
その夜、少女は病室から逃げ、非常階段で震えていた。
「怖いって言ったのに、お姉さんは正しいことしか言わなかった」
依知は返す言葉を失った。借りた三十七年には、数え切れない成功があった。だが、その看護師が何を後悔したかは商品価値が低いとして削られていた。
依知は少女の隣へ座り、自分も怖いと告白した。手術の結果も、痛みの大きさも、自分には保証できない。ただ朝まで一緒にいることだけを約束した。
翌月、依知は記憶パックを返却した。技術評価は下がり、点滴を失敗して先輩に叱られた。家族への言葉が見つからず、ただ長く隣で沈黙する日もあった。
それでも彼女は、小さなノートを持ち歩いた。患者の好きな物、嫌いな音、言えなかったことを書くためだ。
三十年後、そのノートは新人教育用に買い取られそうになった。依知は契約書の「失敗・後悔を除外する」に線を引いた。
「そこを消すなら、私の経験ではありません」
彼女が後輩へ渡したのは、完璧な手ではなく、迷うことをやめなかった三十年だった。