新居の空いている一段
蓮見坂依織は、婚約者と暮らす新居へ、推しのものを一つも持ち込まないつもりだった。
ミュージカル集団「玻璃の航路」を追うファンアカウント「紫の切符」は、フォロワーが二万人いる。けれど恋人には、年に数回観劇するとしか言っていない。以前、駅で巨大な応援うちわを持つ人を見た彼が「すごい熱量だな」と笑った、その横顔を忘れられなかった。
引っ越し前夜、段ボールの底が抜けた。パンフレット、銀テープ、紫のアクリルスタンドが床へ広がる。拾おうとした恋人のスマホが鳴った。
〈紫の切符さんが新しい投稿をしました〉
依織と彼の手が、同じアクリルスタンドの上で止まった。
「フォロー、してるの」
声が責める形になった。彼はスマホを伏せた。
「去年の公演、君が忙しくて会えなかった週に一人で観た。何を見ればいいか分からなくて、この人の初心者向け投稿を読んだ」
依織は、最前列より緊張しながら「私だよ」と言った。
彼は驚き、次に段ボールを見た。それから、笑う代わりに一冊ずつパンフレットをそろえた。
「隠してほしいとは言ってない」
「でも、すごい熱量って」
「あれは羨ましかった。あんなに好きなものがある人が」
彼は、依織が観劇から帰るたび機嫌がよくなる理由を知りたかったのだと言った。ただ、秘密にしているものを無理に開ければ、好きな気持ちごと壊す気がして尋ねられなかった。依織もまた、たった一度の言葉だけで彼を「理解しない側」へ置き、説明する前から扉を閉めていたことに気づいた。
新居のリビングには、彼が選んだ低い棚があった。依織は生活感が出るから空けておこうと思っていた。
翌日、彼は棚板を一段増やした。
「全部は無理でも、今季分くらい置ける?」
依織は紫のアクリルスタンドを中央に置き、その隣へ二枚目のチケットを立てた。アカウントには新居の場所が分かる写真を載せなかった。ただ、空いていた一段が埋まる様子だけを投稿した。
〈好きなものにも、住所ができました〉
その文章を、隣のソファで最初の読者が読んでいた。