春を一日ぶん
イリゼが「明日を売る店」を見つけたのは、エドガーが北の門をくぐる前夜だった。
門の向こうへ行った人は、二度と同じ季節には戻れない。エドガーの出立は夜明け。二人に残された時間は、窓辺の蝋燭一本ぶんしかなかった。
別れが決まってからの一週間、二人は荷造りと手続きばかりしていた。借りた部屋を解約し、食器を隣人へ譲り、冬服を箱へ詰めた。泣く暇も、喧嘩する暇もなかった。最後の夕食さえ、立ったまま固いパンをかじった。
イリゼが欲しいのは、特別な祝宴ではない。片づけの終わった部屋で寝坊し、二人ぶんの朝食を作り、行き先を決めず歩く一日だった。
「一日だけ買えますか」
店主は机の上に、小さな暦を開いた。
「未来の一日は、同じ季節の過去一日で買う。春を増やしたければ、あなたの春を一日もらうよ」
頁には、イリゼの記憶が花びらのように並んだ。
十七歳の春。仕立屋を辞めた日。
二十歳の春。初めて一人で部屋を借りた日。
去年の春。エドガーと大喧嘩し、三日後に同じ傘へ入った日。
そして、六年前の春。橋の上で風に帽子を飛ばされ、見知らぬ青年が川へ飛び込んだ日。
ずぶ濡れのエドガーは、拾った帽子を胸に抱えて言った。
――次は、紐をつけておいたほうがいい。
礼として温かい飲み物を奢り、二人とも財布を忘れていたことに気づき、店の皿を洗った。あの日がなければ、二人は出会わなかった。帽子には、それから本当に長い紐がついた。
「別の日では駄目ですか」
「どれでも一日。安い日はない」
買った明日で、二人は何をするだろう。豪華な食事でも、永遠の誓いでもない。寝坊して、焦げた卵を食べ、町外れまで歩く。そんな一日が欲しかった。
イリゼは橋の頁を指で押さえた。
記憶の中の青年が、帽子を差し出す。水滴が光る。イリゼが笑う。その光景は頁の奥へ沈み、白紙になった。
店の扉が開き、外で待っていたエドガーが顔を出した。
「買えた?」
イリゼは頷いた。彼の外套の胸には、なぜか見覚えのない帽子の紐が結んである。
一日ぶんの明日が、暦の最後に増えていた。
「明日、何をしたい?」と彼が訊く。
イリゼは白くなった春の頁を閉じた。
「あなたと、もう一度会いたい」