暮らし方覚え書き・最終頁
【昭和五十一年四月】
枝光多恵、沢渡理作と結婚。
覚え書き一。理作は朝、味噌汁を先に飲む。
覚え書き二。多恵は新聞を畳まず読む。
互いに気にしないこと。
【平成二年十一月】
理作、暖房を二十三度にする。
多恵、二十度へ戻す。
夜中に三度、上げ下げ。
翌朝、二十一度で合意。
【平成二十年六月】
理作、テレビを見ながら話を聞く。
多恵、返事がないと思い同じ話を二度する。
理作、二度目だけ返事をする。
多恵、一度目から聞いていたなら返事をして、と怒る。
仲直りに水羊羹。
【令和六年三月】
理作、定年後の畑を始める。
朝五時に起きる。
多恵、夜のラジオを最後まで聞く。
同じ寝室だが、眠る時刻が合わない。
【令和八年九月】
夕食の献立を別々にする。
理作は塩分を控える。
多恵は辛い物を食べたい。
同じ食卓で、違う鍋。
【令和十年一月】
多恵、別居を提案。
理作、反対せず。
子どもたちは驚いた。
「喧嘩したの?」
「浮気?」
「介護が嫌なの?」
どれも違った。
四十九年の暮らしで、二人は相手の癖をほとんど知った。
知ったから直せた。
直したから暮らせた。
けれど毎日どちらかが温度を一度下げ、音量を一つ上げ、食べたい物を一品諦めるうち、自分の暮らしが少しずつ仮住まいになった。
「離婚までしなくても」
娘が言う。
多恵は笑った。
「離婚したいんじゃなくて、自分の音量でラジオを聞きたいの」
理作も言った。
「俺は朝、足音を忍ばせず畑へ行きたい」
春、多恵は妹の住む海辺の町へ移った。
理作は山側の家へ残った。
引っ越しの日、理作は多恵の荷物へ水羊羹を入れた。
多恵は畑用の帽子を新しく縫って渡した。
「毎週、電話する?」
多恵が訊く。
「決めると面倒だ」
「そうね。話したい日に」
「そのほうがいい」
二人は駅で手を振った。
恋人の別れというより、長く同じ机を使った同僚が席を移るような穏やかさだった。
だから余計に、胸が痛んだ。
【暮らし方覚え書き・最終頁】
理作は一人になると暖房を二十三度にした。
多恵はラジオの音量を三つ上げた。
どちらも最初の夜は、相手に注意される気がして、すぐ元へ戻した。
四十九年の小さなズレは、別れれば消えるものではなかった。
互いの暮らしに刻まれたまま、それぞれが自分の幅へ戻るための目盛りになった。