最後の段ボール
引っ越し業者が最後の段ボールを運び出したあと、小毬の部屋には、カーテンのない窓と凪人だけが残った。
「鍵、返しに来た」
差し出された合鍵は、二年前に返してもらうはずだったものだ。別れてから一度も使われていないらしく、金属は妙にきれいだった。
管理会社の退去確認まで二十分。小毬は床に残ったガムテープの切れ端を拾った。
「ありがとう。もう行っていいよ」
「掃除、手伝うよ」
「終わってる」
「駅まで運ぶものは?」
「ない」
玄関には、機内持ち込み用のスーツケースが一つだけあった。明日の便でシンガポールへ行く。赴任期間は二年。
凪人と別れた理由も、転勤だった。二年前、彼に大阪行きの辞令が出たとき、小毬は遠距離なんて無理だと言った。ついていくとも言えなかった。凪人が辞令を断ろうとしたので、怖くなって別れた。自分のために誰かの仕事が変わることに耐えられなかった。
そして今度は、自分が行く。
「手伝うよ」
二度目の声は、窓枠に残った画びょうを見つけたときだった。凪人は財布から硬貨を出し、その縁で画びょうを抜いた。
「そういうの、昔から嫌い」
「何が」
「何でも手伝えると思ってるところ」
「何でもとは思ってない」
管理会社から着信が来た。あと十分で着くという。
小毬は合鍵を受け取ろうと手を出した。凪人は掌を閉じた。
「これ、返したら本当に終わる?」
「もう終わってる」
「じゃあ、なんで俺を呼んだの」
宅配でも郵送でもよかった。わざわざ今日を指定したのは、小毬だった。
「鍵を返してほしかったから」
「それだけ?」
「それだけ」
言い切ると、空っぽの部屋に声が長く残った。
凪人は玄関へ向かった。小毬の横を通るとき、スーツケースの持ち手を起こす。
「駅まで手伝うよ」
三度目だった。
待っていて、とは言えない。二年後に好きでいて、とも言えない。けれど断ることだけは、もう愛情ではない気がした。
小毬は閉じていた手を開いた。
「じゃあ、そこまで」
「駅?」
「明日の空港まで」
凪人は驚いた顔をしたが、笑わなかった。ただ合鍵を自分のポケットへ戻し、スーツケースを玄関の外へ出した。
管理会社の足音が廊下の向こうから近づく。小毬は最後に部屋を振り返り、何も置き忘れていないことを確かめた。鍵だけを除いて。