最後の銅銭
河原の丸石に、漆戸孫六は銅銭を一枚立てた。
穴の縁は欠け、表の文字も半分消えている。主家を追われた日に受け取った最後の扶持だった。以来、宿代にも酒にも使わず持っていた。忠義ではない。銭一枚すら使えなかった頃の自分を、忘れないためだった。
「それが倒れたら抜く」
孫六が言うと、奈良坂彌助は鼻で笑った。
「風任せか」
二人の背後では、渡河を控えた兵が息を潜めていた。浅瀬を知る浪人を一人だけ雇う。将はそう決め、決闘を許した。朝までに勝者が決まらなければ、二人とも縛るという。
川は昨夜の雨で膨れ、表面だけを見ればどこも同じ速さに見えた。だが底には馬の脚を折る溝がある。孫六は上流の村で育ち、彌助は三年前の敗走で浅瀬を覚えた。二人の知る道は違い、どちらを選ぶかで先陣の生死が変わる。将は地図より決闘を信用した。背後に並ぶ騎兵たちは、勝者の合図一つで川へ入る。間違えれば、決闘を見物した全員が同じ濁流へ沈む。
彌助の刀は孫六より三寸長い。立った銅銭から互いに七歩。真っ直ぐ踏み込めば、長い方が先に届く。
孫六は左耳が聞こえなかった。昔の大筒で潰れた。彌助はそれを知り、川音の大きい左へ回った。銅銭が石へ倒れる微かな音を、孫六だけが聞き損ねる位置だった。
月が雲へ入り、風が止まった。
銅銭は倒れない。
彌助の焦りが、足の指に出た。長い刀は待つほど重くなる。孫六は欠けた銅銭を見ながら、何年も待たされた浪人の顔をしていた。
やがて彌助が、刀の鯉口を切った。
その音を孫六は右耳で聞いた。
孫六は銅銭を指で弾いた。銭は彌助の顔へ真っ直ぐ飛んだ。彌助は反射で目を閉じ、長い刀を抜く。孫六は前へ出ず、半歩だけ左へずれた。彌助の切っ先が肩を掠める。
次の瞬間、孫六の短い刃が彌助の脇腹へ触れていた。
銅銭は二人の後ろで石に当たり、乾いた音を立てた。
「合図の前だ」
彌助が呻いた。
「倒れたら抜くと言った。地に着くまで待つとは言っていない」
孫六は銭を拾わなかった。あれはもう給金ではなく、間合い一つを買った金だった。
川向こうで、渡河開始の白い小旗が振られた。