最終便の前に

空港の窓の向こうで、故郷行きの小さな機体が雨に濡れていた。

搭乗締切まで二十分。由良のスマートフォンには、二枚の電子チケットが並んでいる。一枚は今夜の故郷行き。もう一枚は三日後、東京へ戻る便。往復で買ったのは、帰郷を旅行の形にしておきたかったからだ。

朝、一回だけ電話があった。町の文化会館からだった。

「閉館前の最後の市民演奏会に、出ませんか」

高校時代、由良はそこでフルートを吹いていた。音楽を続けなかったことを、失敗とは思っていない。ただ、ケースを開けないまま十一年が過ぎた。

出演申込の返事は今日まで。帰れば、舞台に立つかどうかを決めなければならない。帰らなければ、電話は思い出に変わる。

二十九歳は、何かを始めるには遅く、諦めるには早い年齢だと、雑誌に書いてあった。由良にはどちらも同じくらい乱暴に思えた。

鞄の中には、二本のフルート用クリーニングロッドが入っている。一本は高校時代から使っていた木製で、端が欠けている。もう一本は昨日買った新品で、白いプラスチックが不自然にまぶしい。

古いほうだけ持って帰るつもりだった。懐かしむために。新品は、演奏する人の道具だ。

売店で買った紙コップのコーヒーは、もう冷めていた。由良は二枚の電子チケットを交互に拡大し、日付を確かめた。三日後に戻れば、演奏会の前日に町を出ることになる。予定どおりの帰京便は、何も失わずに帰ったふりをするための切符だった。変更すれば、練習時間も足りず、失敗する姿を知っている人たちに見られる。それでも、ケースを閉じたまま空港を往復するよりは、ずっと具体的な怖さだった。

搭乗案内が流れた。

由良は東京へ戻る電子チケットを開き、変更ボタンを押した。帰りの日を、演奏会の翌日にずらす。キャンセル料が表示され、一瞬だけ指が止まる。

これで舞台に立てるとは限らない。音が出ないかもしれない。昔の仲間に笑われるかもしれない。故郷が自分を待っていたわけでもない。

それでも変更を確定し、新品のロッドをケースの内側へ差し込んだ。

帰る便に乗ることより、帰った先で下手な音を出すことを選んだ。

その音の責任は、懐かしさではなく、今の由良が取る。